スキルの価値は低下し、センスの比重が大きくなる
スキルを超えたところにあるセンスとしか言いようのないものが仕事能力の根幹にある。ところが、世の中の人々の興味関心はスキルの方にある。スキルは測定でき、見せることができる。そして、スキルを優先する結果、センスが劣後する。
センスはその人に固有の判断と選択、さらにはその背後にある基準を問題にする。どの情報に注意を振り向け、その内の何を記憶し、何について考え、何を他者に向けて発信するか。知的生産は様々な判断と選択の連続である。裏を返せば、知的生産は「捨象」の連続である。情報が氾濫する今、こうした判断が知的生産の中で重みを増している。
生成AIの登場で、知的生産の焦点と人間の役割は大きく変わった。生成AIを使いこなせば、誰もがスキルを利用できる。個人の仕事能力におけるスキルの価値が低下し、その分センスの比重が大きくなる。人間に残された知的生産はセンスへと集約されていく。
生成AIのアウトプットには意外性がない
知的生産のアウトプットを整理すると4つの象限に分類される。
A(意外性あり×納得感できる):意外だけど、納得感がある
B(意外性なし×納得できる):わかるけど当たり前
C(意外性あり×納得できない):確かに面白いけど現実的なのか
D(意外性なし×納得できない):陳腐な上に納得感もない
知的生産の受け手からすれば、Aの領域が好ましい。しかし、生成AIは統計の原理で動いているので、アウトプットはB領域になりがちである。すべての知的生産にB領域の要素は含まれるが、それだけではA領域には辿り着けない。
「考える」とはどういうことか
知的生産は次のプロセスを辿る。
- 入力:何らかの情報や知見に接してそれを自分の中に取り込む。
- 保存:それを自分なりに整理し思考の素材として保存する。
- 変換:保存してある素材を料理して自分の考えや見解に変換する。
- 出力:それを言語的な成果物として提出する。
この中でも「変換」は、思考という行為そのものであり、知的生産の中核を占める。変換はとりわけセンスの要素が強い。
ファクトを調査し、体系的に情報を整理して確からしい解を求めるのであれば、生成AIは得意中の得意である。それを「考える」と呼ぶなら、AIは人間の思考を代替する。しかし、考えるとは入力して保存した材料を使って、解を見つけるということではない。対象を理解することである。
生成AIを使えば、正解探しを外部化することはできるが、理解を外部化することはできない。理解こそが思考の起点にして基点である。「要するにこういうことだ」という腹落ちするレベルの理解がないと先に進めない。これが最初にあって、後に「こうだからこうなる」という自分なりの論理を組み立てていく。つまり、思考には大きく分けて「理解」と「論理構築」という2つのフェーズがある。まずは対象を理解して、次に論理を考える。論理とは「色々あるけど、要するにこういうこと」と言い切るものである。これが変換の基本である。
論理を獲得する方法
知的生産における「変換」では、「概念と対概念」のセットを頭の中に置く。これが思考の横糸になる。1つの事象だけを取り上げて考えても何も出てこない。そこで横に対になる概念を置く。何かを考える時に「それが何ではないか」から入る。2つを置くことで、定義がクリアになり、比較対照ができるようになる。ある物事の反対にあるものは何かを見つけることが、センスとして大切になる。重要なのが「組み合わせの妙」。対概念は必ずしも「世の中によくある組み合わせ」ではない。画期的な考察は、常に「概念と対概念の思いもよらない組み合わせ」によって成立している。
もう1つは具体と抽象の往復運動である。これが変換の縦糸になる。具体的なものを並べて抽象へと帰納する。次に帰納された抽象が説明力を持ち得るかどうかを、今度は具体を材料に演繹して検証する。
思考の目的は論理の獲得である。論理は常に抽象レベルにあり、具体的な事象を一段階ずつ抽象化していかなければならない。論理を束ねていった先にコンセプトが出てくる。1つのコンセプトからありとあらゆる事象を見つめ、コンセプトから広範な議論が次々に出てくる。コンセプトが決まれば、それを梃子にしていくらでも変換が進む。
知的生産の価値が「平均からの乖離」にあるとすれば、その「乖離のさせ方」こそが芸風である。統計の中央値から外れてもなお、独自の味を持つような知的成果物、それは例えば論理的に多少、乱暴であったり飛躍があったりしても、本人ならではの芸風として全体性と一貫性を持ち得るのであれば、それこそ「生成AIをもって代え難い」知的生産として求められる。
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この本の著者・山口 周さんはBCG・電通出身です。BCG出身者の本 86冊 → 電通出身者の本 39冊 →