トヨタ新現場主義経営

発刊
2013年1月22日
ページ数
279ページ
読了目安
358分
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原点回帰するトヨタの取り組みとは
リーマン・ショック後、創業家出身の豊田章男社長が行ってきた経営改革の取り組みを紹介している本。「トヨタ生産方式」や「2000GT」など、これまでのトヨタの足跡なども内容に含まれており、トヨタの事がよくわかります。


■急成長のひずみ
トヨタに変化が訪れたのは、1995年に奥田碩氏が社長に就任した頃から。海外経験もある奥田氏は「石橋を叩いても渡らない」と言われた慎重な社風を変え、米国や中国などには次々と工場ができた。車づくりでは、高級車ブランド「レクサス」が軌道に乗り、量産ハイブリッド車「プリウス」は、トヨタのイメージを「安い小型車」から「環境・最先端の技術」に変えた。

だが躍進の裏側で、急成長のひずみも広がっていた。生産や開発の現場ではベテラン技術者が不足した。コスト削減を下請けに丸投げし、「トヨタは金をつくっているのか」と陰口も叩かれた。いつしか、世界一の販売台数や営業利益の規模が目標となり、成長の速度をゆるめる事ができなくなっていた。リーマン・ショック後、多くの問題が一気に露呈すると、トヨタの社員は自信を失い、次の目標も見つからなかった。

車を好きになろう

豊田章男氏の社長就任は2009年6月。創業家出身の社長は、実に14年ぶり。リーマン・ショック後の世界不況で、赤字決算に転落した経営の立て直しを託された。

「お客様第一」「現地現物」に基づいて「良品廉価」なものづくりに徹する。豊田喜一郎から伝わるトヨタの基本精神に、章男はこだわる。創業期以来の赤字転落に戸惑う従業員に「車を好きになろう」と呼び掛ける。かつて喜一郎は「ただ自動車をつくるのではない。日本人の頭と腕で日本に自動車工業をつくらねばならない」と、従業員を鼓舞した。その孫も今、創業時のような車への情熱を求めている。

日本に車文化を

日本を代表する自動車メーカーの御曹司。周囲の視線が、豊田章男を悩ませ続けてきた。米国で働いたコンサルティング会社でも、周囲の御曹司扱いは憂鬱の種だった。「どうせ悩むなら、トヨタに入って苦労した方がいいのでは」と勤め先の先輩からのアドバイスに背中を押され、トヨタへの入社を決めた。

当時のトヨタの社長は、父の豊田章一郎は言った。「お前の上司になりたいやつはいない」、それでも入社するというならば特別扱いはしないぞ。厳しさが言葉の裏に隠れていた。その後、章男は工場、経理、生産調査、販売など、幅広い部門を経験する。

商品企画の担当になった頃、豊田は怒鳴りつけられた。「運転の仕方も知らないのに、ああだこうだと言われてはたまらない。テストドライバーは命をかけているんだ」、トヨタのテストドライバー300人の頂点に立つ成瀬弘だった。豊田は成瀬に運転を教えて欲しいと頼み込んだ。そこで成瀬から学んだのは、設計図やデータからは見えない「感性」だった。車の「味」とも呼ぶべき操作性や乗り心地を、研ぎすまされた感性で熟成させる。「トヨタもやるじゃないか」。成瀬と豊田は、そう世界が驚くような車の開発を目指した。2人には、欧州のような車文化を日本に根付かせるという夢があった。

世界一より町一番

豊田章男の憧れの人は、昔から「水戸黄門」だ。何事も現場を見て判断する「現地現物」は、トヨタの創業からの精神。水戸黄門の物語に、現地現物による改革の実践を見て取る。

「現地現物を忘れている」、周囲にそう漏らしていた豊田は、社長内定が発表されると、すぐに現場回帰の改革に着手した。豊田は理想の経営を歯医者にたとえる。「世界一の歯医者や国一番の歯医者の看板より、町一番の看板を掲げた歯医者が繁盛した。住民に最も近く、住民の事を最もよく知っている町一番の自動車会社を、私は目指したい」

リーマン・ショック以降、リコール問題や東日本大震災など逆風続きだった。それでも、ようやく「反転攻勢」に動き出した。

 

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