「アメリカで唯一の日本人漫画家」と称されるミサコ・ロックスさん。日本で漫画家として活動していたわけでもない彼女は、ゼロから独学で漫画を学び、アメリカでチャンスをつかみとった。そこに至るまでの道のりは、まさしく波瀾万丈。そんなミサコ・ロックスさんの生き方は、アメリカのみならず、人生で成功するために必要なこととは何かを教えてくれます。
■マイケル・J・フォックスからすべては始まる
そもそも漫画家になろうとか一回も思ったことはなくて、しょうがなくやった職業なんです。生きていくために。
アメリカに行きたかった理由も、11歳のときに映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を見て、マイケル・J・フォックスに恋をしたからなんです。どうしても彼の彼女になりたかったんです。
そのためには何をすればいいか、というのをいろいろ探しました。それで、本屋に行ったら、法政大学に奨学金派遣留学という制度があって、100万円支給してくれるというのを見つけたんです。
私は子どもの頃、すごく成績が悪くて、一学年360人ぐらいいる中の300番ぐらい。下から数えた方が早かったんです。親からも期待されていない子だったので、小さい頃は、近所の短大に普通に行って、普通に仕事して、と思っていました。でも、マイケルに会いたいがために猛勉強をしました。
勉強は頭のいい友達に教えてもらいました。同世代の友達に聞くのが一番わかりやすく、そこでコツをつかんだら、最終的には中学2、3年のときに、学年20番に入りました。
学校の先生からは「もっといい高校に行けるぞ」とも言われたのですが、私は留学するために、法政大学へ行くことしか考えていませんでした。自分で法政大学の指定校推薦の枠がある高校を調べて、そこに行きますと譲りませんでした。
勝ち気で負けず嫌い、根性としかいいようがない。好きだと熱中して、後先考えずにがんばる性格なんです。とにかくマイケルに恋してがんばる。彼に会いたい、彼の映画をすべて字幕なしで見たいと思っていました。
高校でも、毎日勉強して、ほぼ学年1位をキープして指定校推薦をもらいました。そこでも、もっといい大学を薦められたのですが、私は法政大学に行って留学する、それしか考えていませんでした。
■頼れるものがないと、語学は伸びる
留学してからが大変でした。派遣されたのはニューヨークやロサンゼルスではなく、ミズーリ州というアメリカの超ド田舎。そこではアジア人も珍しく、人種差別などもありました。
しかも、誰も頼れる人がいません。言葉も本当にわからなかったので、これはどうにか目立つしかないと思って、毎二週ごとに髪の毛の色を変えたりしていました。オレンジから緑、緑から赤とか。
頼るものは自分しかいなかったから語学力は伸びました。3ヶ月後には英語の夢を見ました。それが、語学が上達しているシグナルらしいのですが。
私は、マイケル・J・フォックスとカフェでコーヒーを飲みながら、会話していました。それで目が覚めたとき、まだ夜中の三時だったのですが、ガッツポーズしたのを今でも覚えています。
■私は日本で終わる人間じゃない
留学を終えて、日本に戻ってきて就職活動をしました。ただ、帰国子女の学生の多くは、英語ができるということで、高飛車になってしまいがちです。私もその典型だったのですが、就職セミナーに行って、私はこの中の一人にしかなれないんだと痛感させられました。
アメリカの友達に感化されていたから、どうしてももう一度アメリカに行きたかった。20代前半で普通に就職して人生を決めていいのかと思い始めたとき、「私は日本で終わる人間じゃない」と思ったんです。
海外に行って、絶対にこれをやりたいということはなかったのですが、そのとき、劇団四季のミュージカル『ライオンキング』を見ました。そこで、人形の素晴らしさに感動して「わたしはアートをやりたい」と思ったんです。そして、やりたいと思ったら即行動です。
■著者情報
ミサコ・ロックス
コミックアーティスト。NY在住。
法政大学在学中に奨学金派遣留学で渡米。卒業後、単身アメリカに渡り人形師、中学校の美術講師などを経て漫画家に転身。ディズニー・ハイベリアン出版会社から2作出版。
著書『Rock and Roll Love』がNY公立図書館ベスト・ティーンズ・ブックの1冊に選ばれる。
雑誌DFCの連載作品 『Peach de Punch!』がアジア向けの英語教科書に採用。
NHK、BBCのテレビドキュメンタリーに出演後、雑誌日経ウーマンのウーマン・オブ・ザ・イヤーの1人に選ばれる。
全米各地で講演会やワークショップにも力を注ぎ、世界で活躍を広げている。
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