OUT OF AFRICA アフリカの奇跡 世界に誇れる日本人ビジネスマンの物語

発刊
2012年7月20日
ページ数
222ページ
読了目安
255分
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単身渡ったケニアで年商30億円の会社を築いた男の物語
アフリカで起業し、マカダミアナッツの世界5大カンパニーの一つに育て上げた日本人経営者が語る起業ストーリー。

■起業するまで
東京外国語大学で経済政策を研究するゼミに入り、卒論のテーマを「ガーナの経済政策」にした。卒論を書くうちに、現場に行って自分の目で見なければと思い、ガーナ大学に行こうと思った。

入学したガーナ大学附属アフリカ研究所では、ココアを生産する農村へフィールドワークに行き、そのレポートを書いたり、まじめに勉強した。

2年半のガーナ留学を終えて日本に戻り、設立間もない東レとケニア政府の合弁企業の東レ・ミルズに入った。日本から送られる糸を織って生地にし、染色やプリントを施して加工するのが、仕事であった。東レ・ミルズでの5年間、工場経営、組織の動かし方、工場機械のメンテナンスなど多くのことを学んだ。

東レ・ミルズとの5年間の契約を終え、32歳で会社を辞めた。それから10ヶ月ちょっとは、今で言うフリーターのような暮らしをした。仕事は建築資材の運搬、溶接、町工場の手伝いなど、いろんなことをやった。1ヶ月ぐらいは、真剣にパチンコで食おうと思って、毎日有楽町の駅前のパチンコ屋に通った時期もあった。

ある時、実家の妻に財布の中に50円しか入っていないのを見られ、財布に結構なお札を入れてもらう。これではダメだと、ケニアにもう一度渡ることにした。

ケニア・ナッツ・カンパニーの誕生

舞い戻ったケニアでは、何をすればいいのか全く思いつかず、毎日天井を見上げながら、途方に暮れていた。出歩いたり、部屋で考えたりして過ごすうちに、いろいろとアイデアが浮かんできた。リヤカーを作ろう、鉛筆を作ろうなど、企画書を作り、政府機関などを回った。動いて、人と話すうちに、また現地で必要なものが見えてきて、どんどん新たなアイデアが浮かんだ。

気合いを込めて、諦めず、根気強く動き回り人と話すうちに、日本側から考えに賛同してくれるところが出てきた。最初は鉛筆製造を手がけた。日本のトンボ鉛筆にいた人がケニアに来て、一緒にやってくれることになった。

ある日、鉛筆の軸に使う材木のことを調べる目的で、ケニアの植物研究所を訪ねた。所内には様々な植物が実験的に植えられており、その中で、実を付けたマカダミアの木に目が留った。そのマカダミアナッツを口に含むと、香ばしく、オイリーな風味が口に広がった。「これだ」と閃いた。

マカダミアはオーストラリア原産だが、イギリス人がハワイからケニアに試験的に持ち込んだものがいくらかはあった。しかし、どう産業化してよいかわからず放置されていた。

企画書を作り、農業省に開業申請した。企画書の中では、従来のケニア人が大農場で農業労働者として働く欧米型の開発ではなく、「生産者主体の農業開発」を重視。農民が小農スタイルでオーナーとして原料供給の芯となり、現金収入を得る事で、農村の経済基盤を確立していく方向を強調した。

マカダミアナッツのサンプルを持って、日本の明治製菓に相談しに行き、当時の社長と会って話す。そこで、開業資金として5年分のナッツ代を前払いしてもらえるように頼み、食品加工のプロも派遣してもらえることになった。こうしてケニア・ナッツ・カンパニーはわずか数名のスタッフで操業を開始した。

人材こそ大切

会社経営において一番大切なのが人材である。最初の段階から、現地の人と一緒にやってきたが、学んだことは、採用時、こちらの期待値はゼロからスタートすべきということ。次第に育ってくれればいい。

創業当時は、募集をかけてもほとんど誰も来てくれなかった。そこでやったのが、ビジョンを示すことであった。そうすると、共感した人材がくる。ビジョンは人に夢を与えて前向きにする。会社の目指すビジョンには、ちゃんと一人の人間としての自分も含まれているということを、言葉や報酬という形で確認すると、皆の中に参加意識と主体性が出てくる。

良い人材、良い商品、正しいマーケティングが整い、会社は成長していった。最終的に4000人の社員を抱える規模になったが、株主には一度も配当しなかった。利益はすべて再投資と、従業員還元に回し、組織を強固に大きくしていった。

 

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