私はコーヒーで世界を変えることにした。

発刊
2013年5月8日
ページ数
269ページ
読了目安
275分
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推薦者

コーヒー界の「インディ・ジョーンズ」と呼ばれる男の物語
18歳で単身、エルサルバドルに渡りコーヒーの研究を開始。その後、内戦下のエルサルバドルを生き抜き、上島珈琲でジャマイカやハワイ、スマトラ等など世界中のコーヒー農園開発に携わった著者の激動の半生記。


■コーヒー屋になるという夢のはじまり
私はコーヒー焙煎卸業を営む家の長男として生まれた。「コーヒー屋になる」と決めたのは小学生の時。焙煎する前の生豆を保管する倉庫に入り浸り、コーヒー豆への興味が、そのまま中南米への憧れとなり、中南米へ行ってコーヒー栽培をする事が夢になった。

1974年の春、父と東京のエルサルバドル駐日大使館を訪ね、ベネケ大使にメキシコ留学の助言を求めた。「メキシコではなく、エルサルバドルの大学へ行きなさい。私が身元引受人になり入学手続きを取ってあげよう」、父も私もその場でエルサルバドル留学を決めてしまった。

数年におよぶエルサルバドル滞在中、ベネケ大使は「Siempre listo(常に準備をしておきなさい)」、男はいつどこで何が起こっても、常に対応できる準備をしておかなければならないと教えてくれた。「ストリート・スマート」(どんな時でも何とかなるという心構え)でなければ発展途上国では生き抜いていく事はできないと教えてくれた。

内戦下で研究を続ける

エルサルバドルでの目的はあくまでコーヒーを勉強する事だった。大学での勉強にも全く興味を持てず、見つけ出したのが世界屈指の研究機関である国立コーヒー研究所。すぐに所長に会いに行ったが門前払い。そこで毎日、所長の執務室の手前にある秘書の机の前に勝手に座り込み、来る日も来る日も訴え続け、コーヒーを勉強する機会を得る事ができた。当時、研究所で学んだコーヒー品種の知識や品種改良の技術は、その後の農園開発や絶滅品種の復活などに大きな力となった。

1979年、23歳の時に軍事クーデターが勃発。当時、家を継がないと宣言して勘当され私は仕送りもなく、内戦を報じる日本のメディアの通訳で親子三人何とか食いつなぎ、研究所で研究を続けた。しかし、実験区は左翼ゲリラの制圧下に入ってしまったため、近くに疎開する事になった。エルサルバドルは遠すぎるため、一度帰国してしまうと、簡単に戻る事ができない。だから疎開先としてロサンゼルスを選んだ。

知人が紹介してくれたメキシコ料理のタコス屋でバイト。休みは1日もなかった。お金もなく身体もきつかったが、再びエルサルバドルに戻りたかった。

コーヒーを一生の仕事にする

ロサンゼルスでの暮らしが4ヶ月を過ぎた時、UCC上島珈琲の会長が会いに来るという突然の連絡があった。計画中だったジャマイカのブルーマウンテン農園開発の技術者にと、会長から熱心に誘われた。

当時のジャマイカは、コーヒー農園開発以前の、日々の生活もままならない程の治安の悪さだった。首都キングストンの街は、一般の民家でも窓には鉄格子がはめられ、24時間緊張を強いられる生活が待っていた。生活用品も食料品も慢性的に品不足で、停電と断水も日常茶飯事。

さらにコーヒー農園は、栽培技術がかなり遅れており愕然とした。農園開発は過酷を極めた。急斜面のため人の手で開墾するしかない。さらに80万本ほどの苗を植えていく計算になる。強盗、山火事、ハリケーンなど幾多の天才人災に襲われた。その度に気持ちを立て直し、苗を植え続けた。

農園での仕事以外に交渉や接待などの仕事が増えた頃、辞表を提出した。私はコーヒー研究をし、栽培の技術を身につける事ができるコーヒー農園が好きだった。すると会長からハワイ島のコナの農園開発を依頼された。その後、スマトラ島の農園開発や絶滅種となった幻のコーヒーの復活に携わり、51歳の時に上島珈琲を退職する決心をした。

私にはコーヒー屋として、本当においしいコーヒーを見つけ出し、それを消費国の人に飲んでもらいたいという思いがあった。消費者がコーヒーの本当の価値を知れば、生産国の人たちの意識や生活も変えることができる。コーヒーには世界を変える力がある。

 

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