個人のための組織へ
世代による意識の違いが見られ、しかもテクノロジーや環境が常に変化する。こうした時代の変化に合わせて会社を変えていくには、世代を超えて、自主性のある社員の力を結集した「総力戦」を実現しないと、抱えている不安は解消されない。経営においてこの問題の根本に横たわっているのは、高度経済成長期の、画一的で効率重視の古い経営の価値観である「組織のための個人」という考え方である。
この価値観が、テクノロジーが発展し、副業、テレワークなどで1人1人がもっと自由に内発性や創造性を発揮できるような組織で働ける時代になったことで、「個人のための組織」へと変化している。「個人のための組織」という抜本的な価値観に、感度の高い優秀な人と若い人ほどシフトしている。
「組織のための個人」という価値観から離れられない人からすると、「個人のための組織」という考え方は、生産性が落ち、身勝手な社員が増え、組織が崩壊するのではないかと懸念する。しかし、個人の幸福を深く追求していくことは個人の成長、成熟につながり、最後は「組織のため」に行き着く。
まず変えてはいけないことから考える
社員が幸福で、かつ高い生産性を実現させる自律分散型組織として「ティール組織」という言葉が流行している。
大事なのは、ティール組織に変えればいい、ということではない。高度経済成長期に適合したヒエラルキー組織から、ティール組織や自律分散型組織に移行することで変わること、変えてはいけないことは何なのか問わずに組織図や勤務形態といった形だけ変えようとしてもうまくいくはずがない。
「変えてはいけないことは何なのか」を問うた上で、変えるべき組織の姿がティール組織に近しいのならば、必要な要素を取り入れるという姿勢でなくてはならない。
自律分散型組織のつくり方
2017年頃から、GCストーリーは自律分散型組織になった。社内にヒエラルキーは存在せず、会社が設定した会議も存在しない。一番のポイントは、社員1人1人の内発的動機を重視した組織づくりである。ヒエラルキー組織では、どうしても上からの指示を待つ意識が強くなってしまい、自分自身の頭で「何が大切なのか」を考える力が弱くなってしまう。社員の幸福を実現する上では、1人1人の内発性、自律を促す組織への変容は絶対に必要だと考えた。
①目指す方向を決める
- 経営者としての自分が実現したい目的は何か
- それはメンバー全員が目指すに値する目的なのか
②自分に問いかける
- 役職を廃止し、会議を廃止するといった、ドラスティックな変化について腹の底で納得できているか
- 本質的な部分で後悔のない意思決定だと言えるのか
- 従業員がその目的に賛成、適合してくれそうか
組織の大枠のコンセプトを変えようとした時は、その変更を前向きに捉える派と、大枠で賛成しても各論で違和感を持つ派に分かれる。ポイントになりそうな幹部、メンバーとの対話を通して、変容がどの程度受け入れられそうか判断する。
幹部に本心から納得してもらうには、今まで絶対的に目指していた「数字」がそれで実現できるのかについて幹部と対話し、組織計画に落とし込んでいくことが大切である。
③メンバーにミッション、ビジョンを伝える
抽象度の高すぎる目的を、メンバーに理解してもらい、具体的な展開に進めるために、少し抽象度を落とした概念・表現を提示する。
④社員を「人間性」と「能力」の掛け合わせで見る
一般的な企業において「成長」と言うと、多くは「能力」の獲得のみを指す。しかし、より重要視するのは「人間性」、つまり認識の範囲の拡大である。人間的成長とは、この「人間性」と「能力」の成長を掛け合わせた面積の大きさを広げていくことである。
但し、これは従業員の一部にとってストレスのある変化である。認識の範囲のどこに重心があるかによって「やりがい」が異なるからである。
⑤人間的成長を軸にやりがいを設計する
内発的動機で動き、結果を出せる人間にとっては「自由」であることが重要なやりがいである。自律分散型組織において、「自由」は人間性と能力の両方が一定量以上になった場合に権利を有するという考え方である。一定レベルまでは学校のように人間性を高める仕組みをつくり、一定レベル以上の社員は「自由」に動けるようになる。
⑥「論語と算盤」の基本設計
自律経営システム(管理会計)において、一番考えなくてはならないのが、個人、チーム、部署、会社全体の「どの単位で数字を見るか」という問題。自律を目指してからは全社の数字を提示することで、全社員に認識の範囲拡大をしてもらう取り組みをしている。
⑦採用、教育、評価の仕組みを整える
採用においては、「自社で設定しているやりがいが求職者にマッチするのか」、つまり人間性と能力の最低限のラインを明確にすることが必要である。
評価制度では「幸福の追求」「幸福とは認識の範囲拡大」という思想から、「認識の範囲が広い人」を評価するという考え方を続けている。