職業安定所の体験で起業を決意
上京して医薬品卸の会社で働くようになり、40歳を過ぎた頃には営業本部長になった。業績は悪くなかったが、当時の社長は80歳を過ぎても後継者を明らかにしていないという不安な要素があった。この点を取引先の医薬品メーカーの担当者から、社長に話してくれと相談された。デリケートな話題である。社長は怒りをあらわにし、子会社に異動させると言われた。出した結論は、その場で会社を辞めることだった。
退職してすぐ、失業保険の申請のため職業安定所に足を運んだ。この職安での体験が、クオール創業の決断につながったと言っても過言ではない。当時の職安というのは、2年ほど仕事をしたら退職し、職安に申請してもらえる支度金や失業保険で旅行に行くような若い女性の姿が目立っていた。その様子を見た時に、失業保険など受け取ってはいけない、自分が駄目になると強く感じた。
自分が辞めることで、後追いのように退職の意志を固めた10人程の部下の就職の斡旋をし、自分の身の振り方を考えることになった時点で50歳。部下の就職を世話する自分の動向を知った何人かの病院の院長から「来るべき医薬分業の時代に向けて保険薬局をやってみないか」と声をかけられた。職安での体験から、起業するという意志は固まっていた。
創業直後に倒産の危機
クオールの創業は1992年。創業時の構想では、1年目に3店舗を開局する予定だった。ところが1号店である日本橋の兜町薬局から計画が頓挫した。声をかけてくれた院長の病院近くに物件を借り、薬剤師や事務スタッフも揃え、調剤設備も整えた矢先に、病院内で医薬分業に反対する声が強くなり、薬局の開局が延期されてしまった。
病院の経営陣に直談判したことは一度や二度ではない。その間も人件費や設備のリース料など固定費はかかり続ける。退職金や貯金はどんどん減っていき、来月開局できなければ倒産するしかないと覚悟を決めつつあった時、ようやく院外処方の段取りがついたことで、なんとか開局することができた。
1号店が開局に至るまでの間、調剤機器などを開発・製造する湯山製作所の湯山社長に助けられた。「あんたには将来性があるから」と言い、調剤機器のリース料を開局まで猶予してくれた。開局後も新しい薬局を開拓するために必要だろうということで、社員1人と営業車1台を2年間も提供してくれた。湯山社長がいなければ兜町薬局は開局できず、クオールはその時に終わっていたかもしれない。
創業2年目の転機
1993年4月に開局した兜町の1号店とは正反対に、2号店となった古川橋薬局は、準備が順調に進み、同年5月に港区南麻布に開局することができた。さらに12月には3店舗目となるちどり薬局を大田区千鳥に開局した。
クオールの安定経営の基盤を築き、飛躍させるきっかけをつくったのが、1994年11月に開局した竹の塚店だ。知人から東京都足立区に、1日あたり500人前後の外来患者が訪れる病院が保険薬局を探しているとの情報を入手した。だが、その選定はコンペによって決まるという。様々なコネを駆使して、病院の理事長と知り合うことに成功し、誠意をもって交渉した結果、クオールが選定されることになった。
ところが、病院の近くには適した賃貸物件がなく、土地を借りて店舗を建設する必要が出てきた。費用はすべて合わせると1億円ほどかかるという。この時初めて融資の相談のため銀行を訪れたが、バブル崩壊の直後ということもあり、クオールは門前払いされてしまった。資金調達に奔走し、事業計画書を携え、以前から懇意にしていた銀行を訪れ、ついに融資を受けられることになった。竹の塚店は無事に開局することができ、後に埼玉県などに拡大していく推進力となった。
時流に乗る
クオールを創業した1992〜1993年というのは、医薬分業率は10%強だった。国が医薬分業を推進するという話は病院の経営者から聞いていたから、その仕事をやってみたらどうなるだろう、ということは創業前から考えてはいた。
クオールが創業した頃から、医薬分業率は毎年10数%ずつ伸びていき、経営者としての力量とは別のところで、その時流に乗ったということはある。医療機関の近くに開局し、その医療機関と1対1の信頼関係を築くマンツーマン薬局を中心に展開していったのは、こういった時代背景もあった。だから、常に薬剤師を集め、資金調達に奔走し、様々な組織をつくるということを行なってきた。