必ずしもデータは信用できない
政府が、完全に的外れな予想をして、見当違いを繰り返すのは「バッドデータ」(統計学的に理想的なデータに紛れ込んで分析を邪魔する粗悪なデータ)を利用しているからだ。しかも、ほとんどの場合、自分たちがそうした「ヤバい」データを使っていることに気づいてさえいない。
データとは、数える、測るといった手法によって得られる情報だが、通常、そうした確固たる数字の裏には、人間の判断という世界が広がっていて、そこには数多くの思い込みに加えて、疑わしい算出方法が共存している場合さえある。また、一般的に偏りがないと考えられているデータ駆動型システムを信頼しすぎるのも危険だ。
政策決定者は国民に対して説明責任があるため、自らが下した判断が公正であり、全国民にとって最善であることを証明しなければならない。それゆえ政府は、人々についての正確なデータを必要とする。政府は政策を打ち出す場合、それが妥当である根拠を示すために「インパクト評価」という形でデータを使うことが多い。インパクト評価とは、予想されるプラス面とマイナス面を、客観的かつ中立的な観点から数量的に比較検討するというものだ。この評価を行うには、たとえ現実的にやや無理があっても、対象となる物事を数値化して計算できるようにする必要がある。問題は、そのような時に役立つ「グッドデータ」が、常に手に入る訳ではないという点だ。
英国では、不確かな数字を過信し、それに基づいた政策が何十億ポンドもかけて推進されることもあった。あるいは、十分なデータがまだ揃っていない段階で、政策が決定されることもあった。そもそも物事の中には、確立された概念がないために、数えたり測ったりするのが本質的に難しいものもある。
明確に定義して測定するのが最も難しいのは、社会的に重要な物事だ。「障害を持っている」や「貧しい」の定義は確立されておらず、「心の病」「孤独」「差別」といった広く認められた社会問題であっても、満場一致で賛同を得られるような明確な定義は今なお定まっていない。
どんな政府も、政党も、出所や健全性を疑わずにデータを使いがちであり、それを止めるのは難しい。来る時代を望ましいものにするためには「グッドデータ」が必要だ。現在使われているデータには問題や重大な欠陥が多数あり、そうした問題を解決しないまま、政策の策定過程でデータがますます大きな役割を占めるような将来を迎えてはいけない。
費用対効果を数値化するのは難しい
「バッドデータ」がはびこる恐れが極めて高い例は、政府が何かの重要性や価値を測ろうとする場合だ。そうした測定は、新たな政策が打ち出されるたびに行われる。新たな政策を提案する際に最も重要なのは、その案には「支払う金額に見合うだけの価値」があると証明することだ。それは結局のところ、この変化を起こすためにかかる費用と、それによって将来得られる利益や削減できる費用とを比較検討することになる。
あるものの費用対効果を数値化する試みでは、科学的な手法を用いても正確な結果が出づらいものだ。なぜなら、通常は、提案した政策が実施された場合に、どんなことが起きてどんなことが起きないかについて、いくつもの予測を立てなければならないからだ。
さらに統計データの客観性は、当たり前のように見えて、実は幻想に過ぎない場合もある。もっと細かく調べてみると、数字に基づいた大胆な主張には何の根拠もない場合もある。
わからないことに対して説明を求める
政治家たちは統計データが、武器庫が満杯になるほど大量の「真実の爆弾」であることを望む。だが現実には、英国の統計データは、大量の「『床が濡れています。スリップ注意』と書かれた折り畳み式の置き型看板」のようなものだ。
統計データそのものを改善しない限り、私たちが取れる唯一の策は、統計データを利用する際に、その確かさと不確かさの適切なバランスをとるようにすることである。人間が集めた、人間に関するデータが、基本的には人間と同じぐらい欠陥があるという事実は避けて通れない。
1人1人の個人に「バッドデータ」を常に探し出させようとするのは現実的ではない。専門性が高い領域については、それらを学んで理解している人に任せるべきだ。私たちにとって大事なのは「ミニ専門家」になることではなく、常に好奇心を抱いて、わからないことには説明を求めることだ。政府、政治家、専門家、ジャーナリストといった、権力や高い専門知識を有する人々が彼らの持つ最高の答えを与えてくれるよう、彼らに問い続けられれば、私たちは自分の役目を十分果たしていると言える。
数字によって管理されるとしても、データによる独裁は防がれなければならない。データとは私たち人間のての上にあるべきものだということを、認識する必要がある。