デフレ時代に売上7倍
日本のどこの居酒屋でも飲めるようになった芋焼酎「黒霧島」は、1916年から宮崎県都城市で芋焼酎の製造を始め、2016年に創業100周年を迎える霧島酒造が生産している。黒霧島は1998年に宮崎県で限定販売して以降、急速に販売を増やし、現在は全国に浸透した。
霧島酒造は、1990年代後半までは、宮崎県のマイナーな中小蔵元の1つでしかなかった。九州で約8割を生産する本格焼酎の業界は、各地域に酒蔵が林立し、独自の風味を開発してきた。細分化の進んだ群雄割拠の様相を呈し、15年前までは全国区の知名度を誇るのは、大分県の三和酒類が造る麦焼酎「いいちこ」くらいだった。
その状況を一変させたのが黒霧島だ。霧島酒造は2012年、売上高で三和酒類を追い抜き、焼酎業界で日本一に躍り出た。1998年度に81億9300万円だった売上高は、2013年度に565億7600万円と約7倍に跳ね上がった。その裏には、黒霧島の開発から販売、生産革新といった独自の戦略があった。
脱杜氏・脱家内工業
江夏順吉は1949年、霧島酒造を設立した。そして、抜本的な生産体制の見直しに着手した。それは、当時の焼酎業界では考えられない「杜氏制度」の廃止だ。杜氏は、勘と経験を頼りに、焼酎に欠かせない麹やもろみを造り、蒸留などの一連の過程をこなす。焼酎の製造では麹や酵母の温度管理が難しい。しかし、順吉は杜氏に頼らず、自前の生産に舵を切った。
各地に林立する焼酎の酒蔵は家内工業の色が濃く、生産能力も概ね年間10〜20万本程度に過ぎない。順吉の問題意識は、ちっぽけな木樽の蒸留機やカメ壺で製造するのではなく、良質な焼酎を安定して生産する事にあった。順吉は酒質の改善に力を注いだ。そのために旧態依然の古い機械を近代化した。トライ・アンド・エラーで脱杜氏の道を探り続けた。そして、カメ壺を一気に30倍の大容量を持つ発酵タンクにするというイノベーションを生み、大規模生産に踏み出した。
芋焼酎の苦戦
焼酎業界では、鹿児島や宮崎でしか飲まれていなかった焼酎が、福岡や東京の大都市に進出し、「第一次焼酎ブーム」と呼ばれ、市場が3倍に拡大した。「さつま白波」「いいちこ」「二階堂」などが全国的な人気を獲得した。その一方で、霧島酒造の成長は止まった。主力の芋焼酎「霧島」は県内消費の域から出られず、宮崎県でも安い酎ハイに消費者を奪われつつあった。
順吉は「芋がうまい」と、あくまで芋に固執した。だが、芋焼酎は苦境にあった。麦やソバといった穀類焼酎が台頭する裏で、東京など大都市では「芋臭い」の烙印を押された。原料の風味を残しやすい点が芋焼酎の最大の特徴だが、華やかなバブル経済を享受し始めた都会では見向きもされなくなった。
順吉のライバルへの対抗策は、愚直に品質強化を進めるだけ。長年の信念は「良いものを造れば、おのずと売れる」であり、高い品質を追究するために機械の改善に没頭した。「良い焼酎ができたら、東京に持っていき自ら売りたい」と口癖のように話したが夢は叶わずに終わる。
「黒霧島」誕生
1996年、順吉の死後、霧島酒造は焼酎業界8位だったが、新興メーカーの攻勢に喘ぎ、伸び悩みに対する危機感が充満していた。芋焼酎の商品全体に「ダサイ」というイメージがあり、そのマイナスの印象を変えなければいけなかった。無味無臭に近い麦、米、ソバといった穀類焼酎がもてはやされる理由はなぜか。焼酎は食事のメーンではなく、あくまでサブの飲み物。焼酎そのものが風味を主張しすぎてはいけないという仮説が浮かんだ。
お客様のニーズを食との連動で引き出し、需要の拡大を図ろうと「黒霧島」の開発が始まった。芋の香りは従来に比べほぼ半分に抑えた。その代わりに甘みが増し、後味の飲み口もすっきりした。芋焼酎メーカーとしては自己否定につながりかねない「芋臭くない」商品が誕生した。