mp3の発明
カールハインツ・ブランデンブルグは、13年間の努力の末に、デジタルオーディオ分野ではそれまで誰にも解けなかった大きな問題に1つの答えを見出した。研究の基礎は数十年前に遡り、1970年代の終わりからエンジニア達はmp3に近い技術を理論的に打ち立てていた。彼の論文指導者であるディーター・ザイツァーは、人間の耳には区別できない音の研究を利用すれば、少量のデータでハイファイ音楽を保存できるようになると考えていた。
音楽CDは、1秒のステレオサウンドの保存に140万ビット以上も使っていた。目標はこれを12万8000ビットまで圧縮することだった。ブランデンブルグは、数十年分の実験データに基づいて、人間の耳で実際に聞き取れるビット数を使って、音質を保ちながらファイルを圧縮できるアルゴリズムを開発し、このプロセスを反復する方法を見つけ、特許を申請した。
コンピュータの処理能力の増加が進歩に拍車をかけた。1年もしない内にブランデンブルグのアルゴリズムは多種多様な録音音楽に対応できるようになっていった。1988年の終わりには初めて買手がつき、世界初のmp3エンドユーザーに手作りデコーダーを出荷した。買ってくれたのは、サイパンの離島にある小さなラジオ局だった。
mp3の苦難
1994年までに、mp3は圧縮スピードでほんの少しだけ劣っていたけれど、mp2に比べてはるかに音質が改善されていた。12分の1に圧縮しても、mp3はステレオ音質に近いくらいの、高いクオリティを保っていた。デジタル電話線を通した音楽ストリーミングは、ほぼ可能になっていた。しかも、個人のPC 市場は拡大していて、ローカルに保存されたmp3メディアのアプリケーションにも将来性が見えてきた。しかし、mp3はMPEGの規格決定委員会で、mp2に技術的に優れているにもかかわらず、7戦全敗で政治的に葬られた。
最後に彼らを救ったのは、テロス・システムズという企業だった。テロスは、音質に優れたmp3をNHLにライセンスし、スポーツリーグに採用されていった。但し、ある程度の利益を確保するには、家庭用のユーザーに売り込む必要があった。ブランデンブルグはPC向けのmp3ファイルの圧縮と再生アプリケーションの開発を指示し、mp3を広めるためにこれを無料で配布した。
エンコーダーは無料で、PC市場は急拡大し、どんな家電メーカーでも最低限のライセンス料で携帯プレーヤーを製造できた。しかし、音楽産業の協力がなければ役に立たない。業界規格はmp2で決まりだった。mp3が広く一般に普及しなければ、音楽産業は楽曲を提供しないし、mp3のユーザーがクリティカルマスに達しなければ家電業界はプレーヤーを製造しない。mp3は八方ふさがりだった。
著作権侵害の津波
やがて、mp3の圧縮と再生アプリケーションは、アンダーグラウンドのどこかで使われ始め、何万、何十万もの不正ファイルを生み出していた。
ブランデンブルグは著作権の侵害を認めなかった。しかし皮肉なことに、ブランデンブルグが自分の知的財産から得る莫大な富は、歴史上最も大規模な著作権侵害から生まれていた。ウェブサイトでも世界中のファイルサーバーでも、mp3ファイルの数はものすごい勢いで伸びていた。
1999年、ノースイースタン大学を中退した18歳のショーン・ファニングがナップスターを開発した。P2Pファイル共有サービスだ。無料のナップスターはほとんど一夜にして、一番人気のアプリケーションになり、それをきっかけに著作権侵害の津波がやってきた。
mp3プレーヤーが流行れば、何億という楽曲が売れるはずだった。iPodが1000万個売れれば、iTunesストアで10億曲が売れるはずだったが、そうはならなかった。デジタルの売上は伸びていたが、CDの減少を補うにはほど遠かった。iPodはかっこいいHDDに過ぎなかった。だから海賊版で一杯になっていた。本当の問題は法を破っていた一般大衆だった。iPodにはお金を払うが、音楽業界には一銭も落とさなかった。