2種類の美徳
人間の美徳には大きく分けて2つの種類がある。1つは履歴書向きの美徳、もう1つは追悼文向きの美徳。前者は、就職戦線において自分を有利にしてくれ、他人から見てわかりやすい成功へと導いてくれるような能力。後者は、葬式の時、集まった人たちの思い出の中で語られる美徳だ。それは人間の核として存在しているものに違いない。大半の人は、明らかに、自分の根本的な人格を磨くことよりも、職業的な成功を目指す生き方を選んでいる。
創世記の天地創造の物語には2つの側面があり、それ故に、私たち人間の本性にも2つの対立する側面がある。「アダムⅠ」は、私たちの中のキャリア志向で、野心的な面。アダムⅠは何かを創り、築き上げること、新たな何かを発見することを望む。そして高い地位と勝利を求める。「アダムⅡ」は心の内に何らかの道徳的資質を持とうとする。内なる自分を晴れやかで曇りのないものにしたい、善き行いをするだけでなく、善き存在であることも求める。アダムⅡは他人に深い愛を注ぐこと、他人への奉仕のために自己を犠牲にすることを欲する。
アダムⅡの論理はアダムⅠの反対だ。それは道徳の論理であり、経済の論理ではない。
外向けの成功が求められる現代社会
アダムⅠの成功、つまり職業的な成功のためには、自分の強みを育てるのが良い。アダムⅡの成功、つまり道徳的な成功のためには、自分の弱みと対峙することが不可欠だ。私たちは今、アダムⅠつまり外側のアダムばかりが優先され、アダムⅡが忘れがちな社会に生きている。現代社会では、職業的な成功について考えることは奨励されても、内面の充実を図ることは置き去りにされがちだ。成功を収め、称賛を得るための競争はあまりに熾烈なため、私たちはそれで消耗し尽くされてしまう。
アダムⅠだけの場合、人生の意味、自分は何のために生きているか、ということはまともには考えない。せっかく技能を磨いても、それを何に使うべきなのかがわからない。自分のアダムⅡの面に常に厳しい目を向けていなければ、私たちは簡単に自己満足に陥り、道徳的に難のある人間になってしまう。
現代社会の大きな間違いは「アダムⅠ」さえ成功すれば、人間は心から満足できると多くの人が信じていることだ。実際にはそんなことはない。アダムⅠの欲望は無限である。絶えず「もっと欲しい」と思い続ける。アダムⅡを成長させない限り、本当の満足を得ることはできない。