日本における茶碗の起源
茶碗は、言葉として何よりも茶を飲むための器でなければならない。日本にいつ茶が入ってきたのかについては確証がない。正史の上で初出とされるのは815年、嵯峨天皇が近江の韓崎に行幸された際に大僧正永忠が「手自ら茶を煎じ奉御」したと言う記事である。当時はまだ新都というべき京都周辺には唐風の文化が陸続と入ってきていた。永忠もまた入唐僧である。
平安時代の9世紀初め頃に茶が一部で飲まれていたことは確かだが、これが実際に日本における最初の茶だったかといえば、おそらくそうではない。奈良時代の聖武天皇の頃、728年に「造茶使」、729年に「行茶事」と茶のつく文字が出ている。永忠が嵯峨天皇に茶を献じたのよりほぼ100年前、奈良時代の早い段階で日本でも茶の存在を知られ、一部では飲まれていた事になる。
茶碗は茶とセットをなして輸入されたはずで、「茶碗=磁器」という図式で日本人にインプリントされたと考えられる。日本の8〜9世紀の遺跡からは青磁や白磁の碗が出土している。奈良時代から平安時代の初めにかけて、聖武天皇や嵯峨天皇の周囲で飲まれた茶が中国製の青磁や白磁の茶碗に入れられた可能性は高い。
茶の湯文化の転機
日本の茶の湯文化は、唐の影響下に誕生し、唐物とともに形成されていった。しかし、15世紀後半から16世紀に至って、唐物第一こそ茶の美意識だった文化に、1つの転機が訪れ、侘茶の世界において高麗(朝鮮)物が高く評価されるようになった。その評価は現在まで続いている。
中国風を多分に残していたであろう室町時代の禅院や堂上の茶から、いかにして日本的な侘茶が成立していったかは、茶の湯の歴史の大問題である。政治的に見れば、茶は信長にとって有力な儀礼的意味を持っていた。室町幕府の体制を壊した信長は、自分が権力の座に昇ると、かつての堂上の儀礼に代わる集会の形を必要としたはずである。そこに堺の有力商人たちの間で流行していた茶の湯に着目し、新しい意味づけを加えた。
侘茶の台頭で茶碗の価値が変わった
村田珠光に始まるとされる侘茶は端的に言えば「貧乏な茶」を意味する。道具などに贅沢しないのが本来である。しかし、室町時代後期には外国人が驚くような高額の金銭が道具に注がれる面を持つようになっていった。
井戸茶碗は日本の抹茶の世界で茶碗の代表格の1つである。井戸茶碗は、作行きの多様さこそが、侘茶の世界で愛され、高く評価された大きな理由である。これまで珍重されてきた唐物には、凹凸のロクロ目は普通見られない。このロクロ目がないのは、陶磁器の一般的な特徴で、高級陶磁器の属性の1つである。この点から言えば、井戸茶碗は荒削りの茶碗である。ところが日本の茶人は、この総じて量産品につきものの特徴である釉色の不均一、個々に変化のある梅華皮、片身替りの釉調などの「粗相」を好んだ。
井戸茶碗に代表される高麗茶碗の受容には、道具に個別性を求める侘茶の茶人たちの要求が基にあった。その茶碗史的背景には、極めて規格化志向の強い中国陶磁には満たされないが、かといって茶陶としては未だ独自の器形や装飾の表現形式を持たない日本の焼き物では使えるものがないという茶人側の事情があった。そこで発見されたのが朝鮮半島南部の民窯の製品だった。一定の規格の中にありながら個々には自由度が高く、侘茶の茶人の茶碗として使える焼き物だったのだ。
個々の井戸茶碗に備わる個性は、決して陶工の意図に出るものではなかった。たまたま焼き上がりに差が生じた。そこに注意を向け、その個別性に着目したのが日本の茶人である。茶人は自己表現として器物を選択しようとした。選択したモノを使用することを通じて自己を表現しようとする。この表現形式は、その後の茶の湯において1つの規範をなしていった。器物に自己を投影させるためには、対象となる器物にも自己に対応する個体性、個別性がなければならない。そのために個別性のある井戸茶碗が珍重され、高い価値を持つ個体としての茶道具が成立していった。