アート思考とは
「アート」というのは、タンポポに似ている。「アートという植物」は、「表現の花」「興味のタネ」「探求の根」の3つからできている。タンポポのように、空間的にも時間的にもこの植物の大部分を占めるのは、目に見える「表現の花」ではなく、地表に顔を出さない「探求の根」の部分である。アートにとって本質的なのは、作品が生み出されるまでの過程の方である。どれだけ上手に絵が描けたとしても、どんなに手先が器用で精巧な作品が作れても、それはあくまで「花」の話。「根」がなければ「花」はすぐに萎れてしまう。
アートという植物は「興味のタネ」からすべてが始まる。ここから根が出てくるまで何年もかかることがある。その根は、ある時どこかで1つにつながり、突然「表現の花」が開花する。この植物を育てることに一生を費やす人こそが「真のアーティスト」である。アーティストにとって花は単なる結果でしかなく、根があちこちに伸びていく様子に夢中になり、その過程を楽しんでいる。アート思考とは「自分の内側にある興味をもとに自分のものの見方で世界を捉え、自分なりの探求をし続けること」だと言える。
すばらしい作品とは
20世紀が訪れるまでの長い間「目に映るとおりに世界を描くこと」は画家たちを惹きつけてやまないテーマだった。当時、ほとんどの人々にとって「すばらしい絵」とは「目に映るとおりに描かれた絵」であり、それこそがアートの「正解」だと考えられていた。しかし、カメラの登場により「目に映るとおりに世界を描く」というルネサンス以降のゴールが崩れてしまった。
アンリ・マティスは「アートにしかできないことは何か?」という問いをめぐって「探求の根」を伸ばした。その結果、「目に見えるものを描き写す」という従来のゴールから離れて、「色」をただ「色」として使うという「自分なりの答え」を生むに至った。マティスが「20世紀のアートを切り開いたアーティスト」と言われ、『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』が「すばらしい絵」だとされているのは、この「表現の花」を咲かせるまでの「探求の根」の革新性ゆえでもある。
これまで「表現の花」の出来栄えばかりに注目が集まり、「探求の根」や「興味のタネ」が十分に顧みられていなかったということに、アーティストたちが気づきはじめた。アートの答えは「雲」のようにつかみどころがなく、常に形を変え続ける。数学的に証明された答えが不変であるのとは違い、アートではどんなに優れた解釈であっても、それは時代や状況、人によって刻々と変化していく。アートの答えはむしろ「変わること」にこそ意味がある。
リアルさとは何か
『アビニヨンの娘たち』は、ピカソがこれまでとは違う「リアルさ」を探求した結果として生まれた「表現の花」である。「リアルな絵」という時、多くの人は「遠近法」で描かれた絵を思い浮かべる。しかし、遠近法は描く人の視点が1箇所に固定され、常に「半分のリアル」しか映し出せない。遠近法に疑問を持ったピカソは、3次元の世界を捉えている実際の状態により近い「新しいリアルさ」を模索し、その結果「様々な視点から認識したものを1つの画面に再構成する」という答えに辿り着いた。
アートとは何か
「何がアートであり、何がアートでないのか」を決める基準はどこにあるのか。アンディー・ウォーホールの作品は21世紀のアートを方向づけた重要なものとして認識されている。
『ブリロ・ボックス』は、商品のロゴやパッケージデザインを、そっくりそのまま木箱に写し取っただけである。彼は「これがアートだなどと言える確固たる枠組みは、実はどこにも存在しないのではないか」という問いを投げかけた。『ブリロ・ボックス』は、それまで堅固なものに思われていた「アート/非アート」の垣根を壊してしまった。