意識とは
現在のコンピュータは意識を持たない。では、私たちにあってコンピュータにないものは何か。それは、モノを見る、音を聴く、手で触れるなどの感覚意識体験、いわゆる「クオリア」だ。
最新のデジタルカメラは、レンズを通して景色を捉え、その中から顔を探し出し、そこにピントを合わせられる。しかし、景色そのもの、顔そのものを「見て」はいない。いわば、デジタルカメラは視覚クオリアを持たない。画像を処理し、それを記録することと、世界が「見えて」いることとは本質的に異なる。
私たちは、日々、総天然色の視覚世界を体験するが、実際の世界に色がついているわけではない。色はあくまで脳が創り出したにすぎず、外界の実体は電磁波の飛び交う味気ない世界だ。私たちは、世界そのものを直接見ていると誤解しがちだが、それはあくまで脳が2つの眼球から得た二組の視覚情報を再構成し、それらしく「我」に見せているにすぎない。
脳は視覚入力に極力忠実でありながら、同時に可能な限り自然な解釈を我々に見せている。クオリアは意識を持つものだけの特権であり、意識の本質である。
脳はただの電気回路である
脳を構成するニューロンには、「我」を脳に成り立たせるような魔法の仕掛けは一切見当たらない。脳は、手の込んだ電気回路に過ぎない。1つ1つのニューロンの働きはたかが知れている。しかし、それらが膨大な数で集まった時、ニューロンの働きからは想像のつかないような事象、即ち「我」が生じていることになる。このシンプルなニューロンの働きから「我」はどのようにして生まれるのか。
意識は知覚から遅れて生じる
私たちの感覚意識体験は現実世界から0.5秒も遅れている。そして、我々の感覚意識体験は、意識の「今」からすれば「未来」の影響を受ける。未だ意識にのぼっていない事象が意識の今の事象の知覚に影響を及ぼすことになる。
このことは、私たちの「自由意志」の存在にも疑問を投げかける。現在では、我々はそれを持たないと認める方向へと議論が向かいつつある。脳が自由意志という「壮大な錯覚」を我々に見せているのだ。
脳は仮想現実を持っている
覚醒中の意識のメカニズムは脳の中の仮想現実に例えられている。そして、その脳の中の仮想現実があるからこそ、それを使って睡眠中に夢を見られる。覚醒中の脳の仮想現実システムは、感覚入力や身体からのフィードバックをもとに、環境と同期をとっている。睡眠中は、その同期を失っているからこそ、現実世界からかけ離れた夢世界が出現する。
我々の感覚は、外界を直接的にモニターしているわけではない。あくまで脳の仮想現実システムが、目や耳などから得た外界の断片情報を元に「それらしく」仮想現実世界を創り上げ、我々に見せているに過ぎない。
仮想現実と現実世界の誤差を同期させていく過程が意識である?
情報は何かに解釈されてはじめて意味を持つ。意識の自然則の客観側の対象は、情報としてのニューロンの発火そのものではなく、その情報を処理し、解釈する「神経アルゴリズム」だと考える。アルゴリズムとは「計算の手順」である。意識の自然則における客観側の対象の第一候補として考えられるのが「生成モデル」と呼ばれる神経アルゴリズムである。
生成モデルの特徴は、生成誤差(生成過程の結果と感覚入力との間の誤差)が最小化されるまで、一連の視覚処理が繰り返し計算されることだ。そして、誤差は徐々に小さくなり、それに伴い仮想的な視覚世界が現実世界により即したものとなっていく。その誤差の最小化を待つ時間によって、意識の時間は遅れる。
生成モデルの過程には、視覚や聴覚など、感覚モダリティ度との信号の性質が大きく反映される。この感覚モダリティごとの特徴を色濃く反映する生成過程が意識を担っていると仮定することで、多種多様なクオリアを説明することができる。