金儲けより、人儲け
「ヨシダ・グルメソース」は、現在世界14カ国で販売され、ヨシダグループは約250億円の企業グループ成長した。成功やお金持ちになることを追い求めてきたわけではなく、人に好かれ、人が自然と集まってくる「ご縁」を大切にし、恩返しをしていく「人儲け」を大切にして、挑戦し続けた。「金儲けより、人儲け」が人生でも仕事でも一番大切である。
「商品が売れません」と相談される。まずは「あなた自身」を売ればいい。これを「人儲け」と呼んでいる。対面して、お互い心が通じ合い、相手に「この人、ええなぁ。この後も会いたいなぁ。」と思ってもらえれば、それが商談成立の鍵になる。コストコで実演販売していた昔から現在まで、この姿勢を変えていない。だから「いい出会いだったなぁ」と思えた時は、決まって相手は最高のお客様になってくれる。
人儲けのコツは「オープンハート」に尽きる。「いつでも、入っておいでや」と自分から心を開いて、一緒に遊び、楽しむ。求められたら、できる限り力を尽くす。すると相手も「この人のために何でもしたい」をいう気になってくれる。
憧れをつかめ
4歳の時に右眼を失明し、いじめの対象となり、喧嘩に明け暮れた。その度に「こんちきしょー! 今に見とれ!」と思って戦ってきた。その精神が、原動力となり人生を決定づけた。人生はしょせん喧嘩だから、強くなりたかった。「強いもの」に憧れ、2つの強いものに出会った。
1つは「空手」だ。拳1つで中学校では番長に成り上がり、仲間と大阪の天王寺や鶴橋に繰り出しては「路上稽古」に興じた。もう1つ出会ったのが「アメリカ」だった。アメリカに行って、自分も強くなりたい。大学受験に失敗して、19歳の時に思い切ってアメリカに行くことにした。
母にアメリカに行く夢を伝えると、母は20年近くコツコツ貯金してくれたお金が入った白封筒を差し出した。「どうせやるんやったら、大きいことせえや。世間体なんか気にせず、好きなことをせえや」。他の兄弟姉妹はみな反対する中で、母親だけが応援してくれた。
何も知らない異国の地で、英語も話せない状況で、住むところもなければ、頼れる人もいない。日本から持ってきたなけなしのお金と、帰りの航空券をチャイナタウンで売り払ったお金で、ボロボロの中古車を買った。その日から、車で寝泊まりする生活が始まった。ビザもなく、日系人のツテで、芝刈りのバイトを始めた。食費は極力、切り詰めた。
10秒の決断
「ソース」に出会うまで、アメリカでの糧は「空手指導」だった。道場を開いていたが、結婚後はそれだけでは足りなくなり、32歳の冬から、昼は「空手指導」、夜は「ソース作り」の日々が始まった。
クリスマスプレゼントを道場のメンバーからたくさんもらった時、何か買ってお返しするお金がなかった。そこで思いついたのが、渡米前に母がやっていた焼肉屋の特製手作りソースだった。それを作ってプレゼントのお返しをすると「また作ってください」という声を何人もからもらった。ほとんどがリピートしてくれる。
「これは商売になる」と道場の地下で、本格的にソース作りに取り組むことにした。成功の秘訣は「10秒の決断」だ。「これはいける!」と思ったら、次の瞬間には体が動き出している。決断が物事のスタート地点だ。10秒の決断を10回、100回していけばいい。人生は決断の繰り返し。たとえ失敗しても次の扉を開ければいい。
クレイジー・ヨシ
ソース作りは、8時間夜通しで煮込み、その後、瓶詰め・ラベル貼りをする。そして、ソースは作るだけでは意味がない。まず、地元の食料品店を片っ端から回った。しかし、飛び込みで来た東洋人の商品をいきなり置くわけはない。そこで「一度、実演販売をやらせて下さい。売れなければ商品はすべて持ち帰ります」と説得した。1本ソースが売れたら、店は代金の35%がもらえ、在庫を持つ必要もない。足繁く通ううちに、実演販売をやらせてくれるお店が出てきた。
目立ってナンボ。この時に生まれたのが「着物」「下駄」「カウボーイハット」という3種の神器だ。クレイジーな格好をして、店頭の一角で、ソースを使った肉料理を作り始めた。店頭での実演販売は、当時のアメリカでも珍しく、ソースは飛ぶように売れた。実演販売が一度成功すると、お店側は次も呼んでくれる。
コストコの店で懸命に実演販売をしていた時、たくさん試食してくれたオバハンが商品を買ってくれないのを見て、食い下がった。根負けしたオバハンが結局、ソースを2本買ってくれた。この様子をコストコの社長が見ていたらしい。「素晴らしいパッションだ。君のようなパッションを皆が持ってくれていたら、私は大成功する」。そこでついたあだ名が「クレイジー・ヨシ」だった。コストコへの参入により、売上は跳ね上がり、数年後、世界中の店舗にヨシダソースを置いてくれた。