音とは何か
音と音波は全くの別物である。音波は「空気などの媒体の振動が伝播したもの」である。その物理現象としての音波が、動物によって感知された時に脳で生じる感覚が音である。つまり、音はあくまでも主観的な感覚のことを指す。音楽は音からできているため、音楽の科学的な解明には、音波の特徴を脳がどのように受け取って音の感覚とするかが重要になる。
脳の神経細胞が音を感じるには、まずは音波の振動を神経伝達物質に置き換え、その神経伝達物質を神経細胞に与えないといけない。そのための器官が耳である。音波の波形は耳の翻訳によって神経細胞の活動に符号化されて、それが脳に伝わる。音楽で大事なのは、鼓膜や中耳よりさらに奥にある蝸牛という器官である。蝸牛は、側頭部の骨の中に収まったうずまき状の器官で、その骨の内側に沿った薄い内張にリンパ液を蓄えている。耳に入った音波の振動は、蝸牛の中央階のリンパ液を上下に揺らし、基底膜が振動を感じると神経伝達物質を放出する。
音を表象する神経活動は、耳を出たばかりの段階では、ある程度は元の音波に忠実な形を保っている。しかし、神経細胞の活動が聴神経から脳幹、中脳、視床へと脳の中枢へ向かい処理のステージが上がるにつれて、音の神経表象は次々と形を変えていく。そして処理の最終段階である大脳に到達する頃には、神経細胞の活動は元の音波の波形とは似ても似つかないものになる。この大脳の雑音のような神経活動こそ、私たちが音や音楽を聴いた時の主観的な感覚の直接の原因である。こうした大脳の神経活動がどのような原理やしくみで音の感覚に結びつくのかは、まだほとんどわかっていない。
音から音階へ
耳には絶えず、雑多な音波が入ってくる。そして、脳がそこに音階の存在を感じ取れば、それは直ちに音楽として浮き立ち、それ以外の音とは明確に違って聞こえる。なぜなら、音階は自然界には存在しない人工的なものだからである。音階とは、坂道のように連続的に変化する感覚的ピッチを不連続な階段状に切ったもので、文字通り「音の階段」である。音楽的ピッチは、このような階段の存在を前提にして初めて得られる音高の感覚である。
ただの音と音楽を隔てる違いの1つが、音楽的ピッチの知覚や認知である。すなわち、動物にもあると思われる原始的で連続的なピッチの感覚がそのまま音楽になるのではなく、これにオクターブ等価性(オクターブの関係にある音を同じ種類の音と感じる)が導入され、さらに不連続な階段状の音階となった「音楽的ピッチ」が音楽を支える。
音楽的ピッチの方が感覚的ピッチより、高次な脳処理を反映している。感覚的ピッチは比較的低レベルの脳処理による素朴な音高の感覚で、これと似た感覚はおそらくヒト以外の動物にもある。それに対して音楽的ピッチは、オクターブ等価性や音階の存在を前提にした感覚で、ヒト以外の動物には感じられないか、ヒトとは異なる随分と性質の違うものになるはずである。
この「音楽的ピッチ」の階段化をどうするか、つまりどのような音階を使うかが、音楽のあり方に大きく影響する。
脳と音楽
音楽による心の動きは、緊張と弛緩の絶え間ない変動である。緊張と弛緩の変動を引き起こす要因の1つは、音の大きさや感覚的不協和のように、音波の物理学的な特徴と直結した低次な感覚である。しかし、それだけでなく、音階音や和音のキャラや、カデンツァのような和音と和音のつながりによっても、緊張や弛緩が起こる。これらは、音と音の関係を捉えて初めて感じられるもので、複雑な脳処理が必要である。つまり、音の大きさの大小のような単純な感覚処理ではなく、脳の高次な認知的処理によって引き起こされる緊張と弛緩こそが、ヒトに特有な音楽の本質的な特徴である。
脳は情報に反応する。脳は受け取ったメッセージそのものに反応するというより、事前の予測と受け取ったメッセージとの「誤差」に反応する。私たちの思考や行動は予測や思い込みからの「誤差」に左右される。そして、私たちの得る情報は、言語的なメッセージだけでない。脳には目や耳などの感覚器から様々な入力がある。この時、周囲の環境に変化がなく、脳の予測通りであれば、私たちは新しく行動を起こす切迫した状況にはなく、弛緩する。しかし、感覚入力に想定外の変化があれば、何らかの行動を起こすことを検討すべく緊張する。
脳が欲しがる情報を、聴覚で与えるのが音楽である。音楽を聴いた時の弛緩と緊張の心の動きを引き起こすのは、音が運ぶ情報なのである。適度な情報量によって適度な緊張を生むのが、音楽の感動の秘訣である。そして、緊張したらそのままではなく、弛緩に戻ってはじめて満足する感じを得られる。音楽の歴史とは、音に適度な情報量を表現するための試行錯誤の歴史であり、そうして確立した音楽の基本原理が、繰り返しと変化である。