偉大さは個人のレベルを超えてつくられる
頂点に立つためには何が必要か。この問いを考える時、私たちは個人に焦点を当てがちだ。才能、意志の力、精神力など、高い業績に必要なものとしてよく挙げられる要素を、その人個人が持っている必要があると考える。
しかし、実際には、個人のレベルを超えて初めて、「偉大さ」の実像がはっきりと見えてくる場合が多い。生まれた文化や境遇、両親の献身、良いコーチに巡り会えた幸運、正しい町、国、あるいは1年の内に適切な時期に生まれたという幸運など、これらの要素はすべて微妙だが、それでも明白に天才が花開くのに貢献している。
偉大さとは確かに優れた個人がつかむものだが、その途上でとても多くの助けを得てこそ、つかめるものでもある。
才能は練習の成果である
長い間、時速150マイルのサーブに反応できるフェデラーのような人は、卓越した遺伝子に恵まれているのだと考えられてきた。この考えをもとに分析すると、フェデラーの反応速度は、ウサイン・ボルトの素早く収縮する筋繊維のように、DNAに刻み込まれているということになる。
しかし、これは間違いだと判明している。標準的な反応速度テストにおいて、トップクラスのテニス選手の平均は私たちと変わらない。テニス選手たちが持っているのは、卓越した反応力ではなく、卓越した予測力だ。彼らは相手の動き(胴体、前腕、肩の向き)を読むことができるから、平凡なプレーヤーよりも早く適切な位置につける。それどころか、彼らは優にボールが打たれるコンマ1秒前から、それがどこに行くか推測できる。この複雑なスキルは生まれ持った特性ではなく、長年の練習によって脳に書き込まれたものだ。
練習が重要である理由の1つは、練習によって脳の神経構造が変わることだ。今日の世界でスポーツの優れた腕前に関して差を生み出しているのは、遺伝子の違いではなく、練習の質の違いだ。
現在、才能という一般的な概念は極めてミスリーディングである。他方で、練習の力は、かなり過小評価されたままである。
スポーツの神は細部に宿る
スポーツはとても小さな事柄の積み重ねだ。プロのアスリートは朝6時に起きて、息切れして肺が停止する寸前まで全力でトレーニングを行い、翌朝また起きると、同じ苦行を最初から繰り返す。すべては、タイムをコンマ何秒か縮めるため、記録を何ミリか伸ばすためだ。あらゆる鍛錬は、何の意味もない、かつすべてを意味する、ほんのわずかな優位性を追求するために行われる。
長年、アスリートたちは、ライバルの誰よりも一生懸命にトレーニングすれば、優位に立てると考えてきた。もちろん、熱心な鍛錬が依然としてスポーツにおける優位性の追求の中心であるが、スポーツも変化している。今日では、汗と努力と同じくらい、工学とテクノロジーによってわずかな差が生み出される。サッカークラブやオリンピックの強化チームには、アスリートだけでなく、器具、医学、工学、心理学まで、あらゆるものから利益を引き出そうとする科学者たちも所属している。
考えすぎは仇となる
考えることは、スポーツにおいても人生においても、万能薬としてよく持ち上げられる。もちろん正しい場面では、考えることは役に立つ。ただ問題なのは、パフォーマンスをする本番の環境では、思考は命取りになりかねないことだ。もっとよく考えるのではなく、考えないようにすることが必要な場合もある。
スポーツ選手が最高のパフォーマンスをしている時、意識的な心はとても静かで落ち着いていることが多い。その代わりに、何年もの練習によりつくられてきた潜在意識の能力がフルに発揮されている。そこでは膨大な量の情報が処理され、大いに労力が使われているが、すべては意識の及ばない領域で起こっている。
人生の多くの分野と同じように、成功と失敗を分けるのは、テクニックよりも、心のパラドックスを乗り越えられるかどうかだ。
スキルより、ゲーム・インテリジェンス
サッカーとは、一番高いレベルにおいては知性のゲームである。サッカー選手は理論家ではないが、どの試合でも毎分毎秒、複雑な計算を行なっている。最高レベルのプレイヤーの証とは、個別のスキルを持っていることではなく、それらを同時に活用できることだ。頭を上げたままドリブルができる。次のパスを受けるためにどこに走ればいいかを意識しながらボールを受けられる。
世界トップクラスの選手たちには時間がたっぷりある。それはライバルより足が速いからではなく、マルチタスカーだからだ。ボールが猛スピードで向かってくる時、チームメイトと相手のディフェンダーがどこにいるかの情報を統合して、次にどこに動くかも計算している。
重要なのは、この「ゲーム・インテリジェンス」は教えられるということだ。脳は適応力が高く、正しい環境下にいれば、より強力で複雑なつながりをつくり出せる。