ユーザーファーストの原点
穐田誉輝は、父親がサラリーマン、母親は生保レディという中流家庭で生まれ、弟と妹がいる。中学生の頃から彼は「起業を目指す」とはっきり決めていた。それは妹が障害を持ってしまったからだ。「サラリーマンの稼ぎじゃ知れている」。子供の頃から冷静に将来を見通していた。
高校は地元の名門校である匝瑳高校の理数科へ進んだ。受験する前、彼は父親に「合格したらステレオを買いたい」と伝えていた。そして、現金30万円をもらい、春休みの間、毎日のように秋葉原の電気街へ出かけた。穐田はステレオのコンポーネントセットを同じ店で買ったのではなかった。アンプ、チューナー、スピーカーなど、質と価格を比較し、それぞれ一番安い店で買うことにした。彼は商品を買うにあたって、徹底的に調査する客だった。その時の感覚がカカクコムの経営をする時に役立った。
彼はカカクコム、食べログ、クックパッドを成長させた。商品やサービスを考える時、彼はいつも中学3年生の客だった。彼が開発したサービスとは客が欲しいサービスだ。経営側の論理や都合でサービスを構築したのではなく、客が欲しいサービスを見つけて、つくる。それをリーズナブルな価格で提供する。だから、彼がつくったサービスは人気が出る。
投資と経営を成功させた能力
穐田が大学生だったのは1989年から93年だ。バブル経済の絶頂期と崩壊、そして崩壊した直後である。バブル後の若い社会人たちは給料が上がらず消費どころではなく、節約の日々を送るようになっていた。穐田はそういった環境変化の中にいた。大学時代から「価格に敏感な消費者が生まれている」事実に気がついていた。さらに、そこにはビジネスの芽があると既に分析していた。彼の能力とはこれだ。
- 世の中の情勢を人より早く知るだけでなく、突き詰めて考え、自分の意見にまとめること
- 考える時や仕事をする時は全集中すること。食事も寝ることも放棄して取り組む
- 客の立場に立つ、客の都合で考えること
彼が投資と経営で成功した能力は大学時代までにほぼ涵養されていた。
インターネットを黎明期に体験する
穐田は大学3年生から就職活動を始めた。秋葉原でステレオを探したのと同じくらいの情熱で、業種を問わず100社近く会社訪問を続けた。大学の仲間たちは彼のことを「就活オタク」と呼んだ。100社の会社訪問をしてわかったことは、大半は彼の目的に合わないという現実だった。「起業のためにキャリアを積む」ことが目的だったが、日本の会社が採用する学生は終身雇用を望む人間だった。
いくつもの面接を経て、入りたいと思ったのは日本合同ファイナンス(現ジャフコ)と大和企業投資の2社。どちらもベンチャー企業へ出資するベンチャーキャピタルだ。1993年、穐田は日本合同ファイナンスに新卒で入社し、3年間在籍した。彼はそこで、企業と経営者を見る尺度を持つことができた。
1995年、彼は25歳でパソコンに触れていた。インターネットの世界を知り、体験していた。新しい文化に誰よりも早く接触していたから成功への道が開けた。それまで情報を手に入れるには書店へ行って、本や雑誌を買うしかなかった。それが自分の部屋ですべて完結することができる。インターネットは社会と人間の行動を変えると実感した。
穐田は日本合同ファイナンスを辞めて、中古車買取専門のジャックに転職した。そして、趣味となっていた企業調査の対象をIT企業まで拡張した。彼はジャックに入り、インターネットを使って中古車のダイレクトマーケティングに手を付けた。これは当時ではかなり先駆的なビジネスだった。
穐田がジャックに転職した理由は、同社が上場を目指して成長していたからだ。ジャックが上場したら穐田は手に入れた資金で独立すると決めていた。そして、ジャックを辞めた後、彼は投資家となり、投資したカカクコムの社長になる。その時はちょうどパソコンマーケットが拡大している最中だった。
働く株主へ
30歳の時、穐田は「ネット起業を投資対象として自分の金を運用して欲しい」と言ってくれたある投資家からの30億円のファンド出資をきっかけにして、アイシーピーというベンチャーキャピタルを設立した。お金を投資するだけでなく、経営にも主体的に携わるスタンスだった。
アイシーピーがやろうとしていたことははっきりしていた。現状の生活に不満があったから、ネットで生活を改善するサービスをするんだ。穐田はネットを使って変えるべきサービスのリストをつくっていて、100以上はあった。レストランの口コミやレシピのサイトはその中から生まれてきた。
自らが見込んで開拓し、投資した会社の経営者になって、必ず株式を公開すると決めていた。見込んだ会社の名前はカカクコム。パソコンを価格比較するサイトだった。2001年、穐田は創業者から仕事を引き継いで欲しいと言われ、社長になった。そして、カカクコムは快進撃を続けた。