修理業から自動車販売業へ
東京で板金塗装工として働き、茨城に帰郷した時から、心の中では「いずれ独立して自分の工場を持つ」と決めていた。1971年、ニクソン・ショックにより、1ドル360円という固定相場制が崩れ、日本経済も転機に立った。ほとんどの人はこれをピンチと考え、情勢を静観する方向へと動いた。しかし、高度成長を支える自動車への需要は減るはずがないという考えが頭をもたげ、独立するなら今しかないと思い至った。
父から900万円借金し、ひたちなか市に土地を購入。土地を担保に400万円借入、工場兼本社を建てた。こうして1972年、板金・整備会社として磯崎自動車工業を創業した。開業直後はほとんど受注がなく、父からの紹介などで何とかしのいでいた。やがてぽつぽつと依頼が入るようになり、思ったよりも早く仕事が回るようになった。
1973年、オイルショックは、板金塗装業に深刻な影響をもたらした。1缶1200〜1300円程度だったシンナーの価格が4500〜5000円と跳ね上がり、1万6000円に設定していたトラック1台の塗装料を2万円以上に引き上げざるを得なかった。お客様と塗装料が折り合わず、仕事を断ることもあった。元々、利益率が高くない商売のため、オイルショックはこたえた。このまま修理業を続けても、大きな成長が見込めないのではないかと、修理業からの脱却を考えざるを得なくなった。
1974年、何とか50万円を捻出して15万円前後の中古車を2台仕入れ、販売事業を開始した。車は当初、地元のディーラーから仕入れていた。ディーラーは新車の販売がメインだったので、中古車販売に力を入れておらず、下取りした時のまま塗装が剥げたり、色ボケした中古車が大量に置かれていた。塗装を専門にやっていたので、再塗装すると商品になるかを一目見れば判断できた。そして、自前できれいに塗装を施せるのが大きな強みとなり、初めから順調に売れていった。
販売事業に進出して以降、売上を伸ばし続けることができた要因には、安定した仕入れルートを確保できたことが挙げられる。コンスタントに大量に車を仕入れるため、オートオークションを主催する日本中古自動車販売協会連合会(JU)を知り、茨城JUに加盟し、中古市場の確立に取り組んだ。さらに当時、自動車を購入する際の決済方法として一般的だった「マル専手形」を貸金業を営んでいた友人に1割2分程度で現金化してもらえることになった。売り買いのサイクルを早く回すことができるようになり、販売台数の拡大へとつなげていくことができた。
販売業を開始した当初から進出したいと思っていた整備の業務を1976年に開始。自動車販売、板金塗装の2つの事業と相互に連携させることで、新たな収益構造をつくり上げることができた。中古車を仕入れて、新たに塗装して付加価値をつけ、販売で利益を乗せ、売った後も整備で収益を上げるという仕組みができあがった。
会社を儲からなくする
1982年、軽自動車販売に特化した第二軽センターを開設。乗用車全般を扱う従来の売り方から軽自動車中心の販売へと路線を大幅に転換させた。当時は新車販売台数に占める軽自動車の割合は2割程度に過ぎなかった。当時のトヨタ自動車のCMに「いつかはクラウン」というキャッチコピーがあったが、ユーザーの目線も大型車、高級車に向かっている時代だったので、軽自動車が大きく伸びるとは誰も予想していなかった。
しかし、国土が小さく狭い道が多い日本にガソリンを大量に消費する大型の乗用車はミスマッチである。だから、いずれは実用性を踏まえて小回りの利く軽自動車に人気が集まると確信していた。
創業12年目の1984年、新しい経営方針を定めた。それは「会社を儲からなくする」というものである。この方針の根底には「お客様をどうしたら喜ばせられることができるか」という考えがある。商売の根の部分にある最も大切なことは、販売に携わる側が利益を吐き出してお客様に還元することではないかと考えた。そこで、具体的な方策として、次の3つの柱を立てた。
- 決して事故車を売らないこと
- 金利では儲けないこと(ギリギリの低金利ローンを提示)
- 工賃永久半額(購入後の車のメンテナンスにかかる工賃を従来価格の半額に)
部下たちからは猛烈な反対にあった。1つ目、2つ目の方針はともかく、3つ目の工賃永久半額はリスクが高過ぎて受け入れられないという。これだけ反対されるということは、他社は追随しにくいということ。それだけ優位に立てると思った。
実は、業者間で下請けとしてメンテナンスを請け負う場合は、一般客に請求する金額の半分程度の料金で引き受けることが多い。万一、整備で採算割れになってもトータルで利益が出れば問題ないと考えた。しばらくの間、苦しい経営を強いられたが、売上を順調に拡大することができた。