すべては「好き嫌い」から始まる 仕事を自由にする思考法

発刊
2019年3月29日
ページ数
319ページ
読了目安
400分
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世の中の9割は好き嫌い
世の中は「良し悪し」の問題で割り切れるものではなく、「好き嫌い」である。『ストーリーとしての競争戦略』の著者が、他人からの良し悪しではなく、自分の好き嫌いを基準にすることの大切さを説いています。

好き嫌いと良し悪し

好き嫌いとは「良し悪し」では割り切れないものの総称である。好き嫌いと良し悪しは、いずれも何らかの価値観を捉えている。但し、この2つは普遍性という連続軸の上で対照的な位置関係にある。

個人的な好き嫌いを超えたところにあるのが普遍的な良し悪し。普遍的な価値観を個別的な方向に寄せていくと、国や地域や組織に固有の「文化」になる。文化は本来的にローカルなものだ。ある境界の内部では共有された価値、つまり良し悪しとして認識されている。しかし、境界を越えて外に出てしまうと、もはや良し悪しとしては通用しない。文化というのは、その中にいる人にとっては心地よい。しかし、文明ほどの普遍性はない。

文化をさらに個別性の方向に寄せ切ると、個人の好き嫌いとなる。当然のことながら好き嫌いは人によって異なる。

良し悪し族と好き嫌い族

世の人々は「良し悪し族」と「好き嫌い族」に分かれる。良し悪し族は氷山の上に出ている部分に目を向ける。海上に見える部分がなるべく大きい方がいいと考える。

好き嫌い族にとって、良し悪しは「氷山の一角」に過ぎない。水面下にはるか大きな好き嫌いが広がっている。それは普段はあからさまに見えないし、見る必要もない。多くの人々の間でコンセンサスの取れている良し悪しなんてものは全体のごく一部と割り切っている。

良し悪し族は世の中を縦に見る。見るもの聞くものを、良し悪しの縦軸に当てはめて価値判断をする。「悪いこと」を指弾し、世の中からなくそうとする。「良いこと」を増やし、伸ばそうとする。

好き嫌い族は世の中を横に見る。それぞれに好き嫌いが異なる個人の集積として世の中を捉える。人それぞれだから、それぞれの好き嫌いでいいとやり過ごす。

「正しい」に縛られる人々

最近、良し悪し族がやけに幅をきかせてきた。個人の好き嫌いの問題でしかないような世事について、「ここがおかしい」「これからはこうならなくてはいけない」「だから日本はダメなんだ」といった良し悪しの基準を持ち出して声高に主張する。

インターネットの時代になって、ちょっとした発言や行為がすぐに良し悪し基準で俎上に上り、叩いたり叩かれたり炎上したりする。SNSの中で、人々は他人の目に映る良し悪しを以前よりも気にするようになった。政治家でもないのに、自分の思考や行動が「正しい」かについて敏感な人が増えている。ちょっと考えてみれば大した根拠も論拠もない「コレクトネス」に縛られるあまり、自分の頭で自由に考え、自分の考えに基づいて行動できなくなっている。

普遍的な価値観が共有されていなければ世の中は成り立たない。良し悪しの基準については、社会全体で時間をかけて堅牢な合意形成をしなければならない。しかし、それはあくまでも氷山の一角だ。市場経済や自由主義という「普遍的な価値観」にしても、水面下でそれを支えているのは独立した人格を持つ多数の人々の好き嫌いである。

競争戦略の原点は「好き嫌い」

戦略とは、競合他社との違いをつくるということ。その時点でみんなが「良い」を思っていることをやるだけでは、他社と同じになってしまい、戦略にならない。

当事者が心底好きで面白いと思っていることを突き詰めた結果としてユニークな戦略が生まれる。これこそが商売の大原則である。商売の基点にあるのは自由意志であり、戦略は経営者による意志表明に等しい。にもかかわらず、本来は好き嫌いの次元にあるはずの意思決定や行動が、安易な良し悪し基準で切り捨てられる。逆に「ベスト・プラクティス」の名の下にいかにも正しいことのように煽られたりする。