なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学

発刊
2018年7月19日
ページ数
368ページ
読了目安
596分
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仏教を科学的に解釈すると・・・
進化心理学と脳科学の視点から、仏教の概念を科学的に解説している一冊。
人間の脳、意識、感覚の仕組みを紹介しながら、瞑想や悟りについて科学的な見解を述べています。

遺伝子を拡散することが目的

自然選択は1つのことしか気にかけていない。自然選択はやみくもに進むプロセスでしかなく、意思を持つ設計者ではないからだ。自然選択が「気にかけて」いることは、遺伝子を次の世代に伝えることだ。過去に遺伝子の伝播が役立った遺伝形質は繁栄する一方、役に立たなかった遺伝形質は途中で脱落してきた。この試練を生き抜いてきた形質の1つが心的形質、つまり脳内に構築され、私たちの日々の経験を形づくっている構造やアルゴリズムだ。

だから、毎日生活する上で私たちを導いているのは、「現実を正確に見せてくれる知覚や思考や感覚」ではない。「祖先が遺伝子を次の世代に伝えるのに役立った知覚や思考や感覚」だ。そのために、脳は私たちに妄想を見せるように設計されている。

快楽は続かない

私たちは自然選択によって、祖先が遺伝子を次の世代に伝えるのに役立ったこと(食べる、セックスする、他の人の尊敬を得る、競争相手を出し抜くなど)をするように「設計」されている。こうした目標を追求させるためには、脳は3つの設計方針を持っている。

①目標を達成することで、快楽が得られなければならない
②快楽は永遠に続いてはならない。快楽がおさまらなければ再び快楽を求めない
③脳は①に集中し、②に集中してはならない

この3つの設計方針を組み合わせると、ブッダが解き明かした人間の苦しみを説明できる。快楽が速やかに消えるように設計されている理由は、続いて起こる不満によって、私たちにさらなる快楽を追求させるためだ。所詮、自然選択は私たちが幸せになることを望んでいない。ただ多産であることを望んでいるだけだ。

仏教の基本的概念

仏教思想は、何らかの形で「空」の概念を受け入れている。世の中を見渡した時に見えるものは、そのものが持っているように見える確固たる実体を実はそれほど持っていないとする概念だ。

加えて、仏教には「無我」という考えがある。我、すなわち自己は錯覚だとする概念だ。この観点からすると、自分の考え、自分の感情、自分の決心という時の「自分」は実際には存在しない。

この2つの仏教の基本的な概念「無我」と「空」を考え合わせると、過激な命題になる。あなたの内側の世界も外側の世界も、見た目とは全く違うということだ。この2つの世界が明晰に見えていないことは、仏教が考える通りたくさんの苦しみを生む。悟りを開くには、人間が苦しめられがちな内外の錯覚を完全に取り去ることが必要となる。そして、瞑想は世界をもっと明晰に見るのに役立つ。

自我は存在しない

自然選択はなぜ人間が自分自身について妄想に惑わされても放っておくような脳を設計したのか。1つの答えは、自分自身について何かを信じ込んでいれば、それが事実だと他の人を納得させやすいことだ。矛盾やブレがなく、事態をコントロールできている人物だと周囲を納得させられれば、自分のためになる。

意識ある自己、即ち自我は、全能の行政機関のようなものではない。人間の心は「モジュール」的な構造をしている。心はたくさんの専門化されたモジュールからなっていて、人の行動を決定づけるのはこうしたモジュールの相互作用だ。そして相互作用の大半は本人が意識することなく起きている。

ある特定の瞬間にたまたま意識にのぼる考えは、どれであれ浮かび上がってきたもの、優勢になったものだ。そして、モジュールは感覚に触発される。この考えは仏教の感覚に執着しないという概念と無我の概念に関連する。感覚をマインドフルに眺め、感覚を手放す時、無我に思えるような地点まで到達する。