世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論

発刊
2021年10月29日
ページ数
240ページ
読了目安
342分
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宇宙の成り立ちを解明できるかもしれない1つの仮説
宇宙の成り立ちを説明するとされるが、未だに解明されていない「量子論」最大の謎に対する1つの仮説を説いている一冊。天才物理学者が、現在の量子論の成り立ちと未だ説かれていない謎を紹介しながら、それに対する1つの解答を提示しています。
証明されれば、この世の中の仕組みが解明されるという、世紀の発見につながるかもしれない仮説が、わかりやすく書かれています。

現在の量子論における謎

量子論は、化学の基礎や原子や固体やプラズマの働きを明らかにし、空の色、星のダイナミズム、銀河の起源を始めとするこの世界の無数の側面を明確に説明してきた。さらに、コンピュータから原子力施設に至る様々な最新技術の基礎となった。工学者、天体物理学者、宇宙論学者、化学者、生物学者たちは、日々この理論を使っている。この理論は、未だかつて誤りだった試しがない。しかし、量子論は、この世界をどう捉えたらよいのか、はっきりさせていない。

 

量子の奇妙さの根っこには「量子重ね合わせ」と呼ばれる現象がある。「量子重ね合わせ」とは、例えばある対象がここにありながらあそこにもある、という風に、ある意味で互いに反する2つの性質が同時に示されることだ。その対象物は、複数の位置の「重ね合わせの状態」にあり得る。

ところが、私たちは決して「量子重ね合わせ」を見ることができず、見えるのは重ね合わせの結果だけなのだ。それらの結果は「量子干渉」と呼ばれている。私たちは重ね合わせによって生じた干渉を目にしているのであって、重ね合わせ自体を見ているわけではない。

 

あらゆる事実は相対的である

量子論は、自然の一部が別の一部に対してどのように立ち現れるかを記述する。つまり、好き勝手な物理的存在が、別の好き勝手な物理的存在にどう働きかけるかを記述する。

私たちはこの世界について、様々な対象物や事物や存在の面から考える。光子、猫、石、時計、木、惑星など。だが、これらは各々が尊大な孤独の中に佇んでいるわけではない。むしろ逆に、ただひたすらに互いに影響を及ぼし合っている。私たちが観察しているこの世界、「現実」と呼んでいるものは、絶えず相互に作用しあっている。それは、濃密な相互作用の網なのだ。量子論は、物理的な世界を確固たる属性を持つ対象物の集まりと捉える視点から、関係の網と捉える視点へと私たちを誘う。対象物は、その網の結び目なのである。

 

ここから次の結論が導かれる。対象物の属性は相互作用の瞬間にのみ存在するのであって、その属性がある対象物との関係では現実でも、他の対象物との関係では現実ではない場合がある。アインシュタインは特殊相対性理論を通して、同時性が相対的な概念であることを発見した。量子論の発見はそれより少しだけ過激で、この理論によると、あらゆる対象物のあらゆる属性(変数)が、速度のように相対的だということになる。

 

「量子もつれ」が表していること

事物が大元のところで互いに依存し合っていることを具体的に表す量子現象が「量子もつれ」である。この現象では、遠く隔たった2つのものが、あたかも語り合っているかのようにある種の奇妙なつながりを保つ。

もつれている2つの光子には「相関」という特徴がある。片方が赤ければもう片方も赤く、片方が青なら、片方も青いのだ。それぞれの光子は観察された瞬間に、赤か青かが判明する。ところが片方が青だということがわかると、遠くにあるもう片方もまた青なのだ。量子もつれ状態にある2つの粒子は、どうやって同じように振る舞うのか。

量子論によると、相互作用がない限り、2つの光子は赤にも青にも決まらない。私たちがその光子を見た瞬間にランダムに色が決まる。ここでは、その2つ光子の色を同時に目にする物理的な対象物は存在しない。だから、その2つの結果が同じかどうかを問うことには意味がない。2つの光子と同時に相互作用する相手が存在しない以上、無意味なのだ。

ある観測者にとっての事実は、別の観測者にとっての事実ではない。2つの対象物の全体としての属性は、3つ目の対象物との関係においてのみ存在する。相関は、相関する2つの対象物が、いずれも第3の対象物と相互作用する時に発現するので合って、第3の対象物はそれを確認することができる。2つの対象物の相関は、第3の対象物との関係においてのみ存在するのだ。

 

したがって、量子もつれは特別な状況においてのみ生じる珍しい現象どころか、相互作用を外側の系との関係で考えると、広くすべての相互作用で生じていることなのだ。量子もつれとは、現実を織りなしている関係そのものを外から見た姿、つまり相互作用の過程における1つの対象物の別の対象物に対する発現であって、対象物の属性は、その相互作用によって現実となるのだ。

 

事実は存在しない

量子論の核をとことん凝縮すると、たった1本の方程式で表すことができる。その方程式によると、この世界は連続的ではなく、粒状である。その粒はごく小さいが、それにも限度があって、事物は無限に小さくはなれない。もう1つ、未来は現在によって決まるわけではない。また、物理的なものは、別の物理的なものに対してのみ属性を持つ。つまりそれらの属性は、もの同士が相互作用した時に限って意味を持つ。さらにその式によると、様々な視点を矛盾なく並列することができない場合がある。

日々の生活の中で、私たちはこういったことに全く気づかない。なぜなら量子干渉が、肉眼で見える世界のざわめきに掻き消されてしまうからだ。それらの現象を明らかにするには、対象物を可能な限り孤立させ、細心の注意を払って観察しなければならない。世界を人間の尺度で観察している間は、この世界の粒状性は見えてこない。あまりに多くの変数が関わってくるので、揺らぎは重要でなくなり、確率は確定に近づく。
たえず揺らぎ攪拌されている量子世界では無数の不連続な出来事が生じているが、私たちはそれを、日々経験する連続的できちんと値が定まる僅かな変数に帰着させる。私たちの肉眼に映るこの世界は、月から眺めた地球の荒海のようなもので、のぺっとした青いビー玉にしか見えない。
だからこそ、量子的世界は私たちの日々の経験と矛盾なく両立する。この世界の古典的な描像が堅固であるのは、ひとえに私たちが近視だからだ。古典力学における必然は、ただの確率。古い物理学が提供してきた明瞭で確固とした世界像は、実は幻なのだ。

 

私たちが事物の全体を思い描く際には、自分は宇宙の外にいて、そこから対象を眺めているところを想像する。ところが事物の総体には「外側」がない。外側からの視点は、存在しない視点なのだ。この世界の記述はすべて内側からのもので、外側から観察される世界は存在せず、そこには内側から見た世界の姿、互いを映し合う部分的な眺めしかない。この世界とは、相互に反射し合う景色のことなのだ。

量子物理学が示すところによると、無生物の間で既にこういうことが起きている。同一の対象物との関係における属性が集まって、1つの眺めを形作る。ところが個々の眺めから抽出したものをすべて集めたとしても、事実を丸ごと再構成したことにはならない。こうして私たちは、自分が事実の存在しない世界にいることに気づく。なぜなら、事実は、他のものとの関係においてのみ事実であるのだから。