天草エアラインの奇跡。赤字企業を5年連続の黒字にさせた変革力!

発刊
2016年3月25日
ページ数
216ページ
読了目安
248分
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推薦者

企業を再生させるために大切なこと
倒産寸前だった日本一小さい航空会社の再生物語。赤字続きの航空会社が5年連続黒字に生まれ変わった経営が紹介されています。

日本一小さい航空会社

熊本県や地元市町村を中心として1998年10月に日本初の第三セクター方式の航空会社、天草エアラインが設立された。2000年3月、座席39席の機体による天草〜福岡線と天草〜熊本線の2路線での運航がスタートした。

天草は福岡から陸路で約4〜5時間、熊本市内からでも2〜2.5時間かかる。そこで、熊本県によって、天草エアラインが作られた。天草エアラインは就航直後から満席便が相次いた。搭乗率は90%を超え、初の第三セクター航空会社という物珍しさもあって、乗ってみたいという人が多かった。さらに、建設中だった天草にある九州電力苓北発電所の工事関係者が毎日のように利用するなどビジネス需要も高かった。

天草エアライン創立1年目は平均搭乗率も80%を超え、営業黒字となった。しかし、就航3年目、乗客数は突然右肩下がりの一途を辿る。この年、これまで天草エアラインを支えてきた九州電力の発電所工事関係者の利用が発電所の完成によってなくなってしまった。また一時的なブームだった就航景気も終わり、搭乗率は6割を割る水準にまで下がってしまった。

 

就航3年目で倒産の危機

客単価を上げて利益率を高めるため、2004年に熊本〜松山線を就航させたが、赤字体質が続いた。そこで熊本県は2008年、元大手航空会社出身で九州の地域航空会社の役員を務めた人物を新たに社長として就任させた。しかし彼には社員との間にコミュニケーションを図って全社一丸となって再建に取り組もうという気持ちはなかった。あったのはトップダウン型のコストカットを軸にした会社経営。

新社長の下、1機しかない飛行機を最大限活用する事が必要だと、1日10便から14便体制がスタートする。しかし、過酷な業務を強いられる事になり、エンジントラブルによる欠航便が相次いでしまう。定時運航が当たり前でなければいけないのに、2008年には20便に1便が欠航する事態となった。天草エアラインでは、欠航の場合、乗客を陸路により移送する事となるが、福岡〜天草の場合これが4〜5時間となる。ビジネスパーソンは、欠航の危険が高い天草エアラインを避けるようになった。

人件費に加え、高騰する燃料費と整備費が経営を圧迫し、2007年には資金も底をつき、債務超過寸前の状況になっていた。ギリギリのところで行政が動き、整備費の補助が決まった。そして、新社長を迎える事になった。

 

新社長による再生

2009年に天草エアラインの社長に就任したのが、JALの整備部門出身の奥島透だった。奥島は、まず自分のポケットマネーで各部門ごとに飲み会を開き、社員の声に耳を傾けた。奥島は、自らが行動した。機内清掃、預かり手荷物の積み降ろし、保安検査場の検査まで、業務をサポートし現場の気持ちを理解する事で、社員のモチベーションをアップさせた。

さらに営業を強化し、システムの改修によるインターネット予約を開始した事で、搭乗率が向上した。便数を14便体制から10便に減らし、整備に余裕をつくる事で、就航率も向上し、時間通りに安全にお客様を運ぶという当たり前の事ができるようになった。

 

天草エアラインを観光資源に

奥島が社長に就任した頃の天草エアラインは全国的な知名度は低かった。就航以来、天草エアラインの乗客は、天草島民、天草に出張するビジネスパーソンや医師等が中心で、観光客の利用が伸び悩んでいた。そこで奥島は機体デザインの一新により、天草エアラインを1つの観光資源とするコンセプトを思い付いた。

2010年に天草出身の放送作家、小山薫堂が非常勤取締役に就任した。小山は機体デザインのコンペを行い、親子イルカのデザインを採用した。飛行機がマスコットになればいいと。そして、飛行機は全国的にも話題となり、天草エアラインは知名度を上げていった。