日本人はどこから来たのか?

発刊
2016年2月10日
ページ数
213ページ
読了目安
245分
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日本人のルーツはどこにあるのか?
約10万年前にアフリカを出た人類は、どのように拡散し、日本に辿り着いたのか。
人類進化学者の著者が、日本人のルーツを探る一冊。

人類の祖先は、ヒマラヤ南北2つのルートに分かれて拡散した

アフリカで進化したホモ・サピエンスは、それまで人類が利用していなかった、貝や魚などの海産物を食べるようになった。今世紀に入ってから、南アフリカの洞窟遺跡で16万年前にまで遡る海産物利用の証拠が相次いで発表されている。食の幅が広がれば、生活可能な場も広がる。それ以前の人類の生息域は陸上の動植物を狩猟採集できる内陸に限られていたが、アフリカの祖先達は海岸でも暮らせるようになった。

海岸移住説によれば、彼らはこの新しいやり方を使って、アジアの海岸沿いを移動していった。初のユーラシア進出は、アジアの南側の海岸線をつたってオーストラリアへ至るルートで起こり、その後かなり遅れて内陸への進出が達成されたという。

しかし、この説には1つ疑問がある。インド洋沿岸域に、初期の海岸移住を裏付ける古い遺跡が見つかっていない。世界各地で見つかっている旧石器時代の遺跡を年代ごとに地図にプロットすると、人類のユーラシアへの拡散は、アジアの南と北、ヨーロッパも含めて、同時爆発的に起こったと考えられる。

 

日本列島への人類最初の渡来は38000年前

地図上では、ホモ・サピエンスのアジア拡散ルートにはヒマラヤの南北を通る2つのルートがあった事が見て取れる。そして、東アジアはその合流点であったらしい。ここから日本列島へ至る経路は3つあるが、それぞれのルートを、時期を違えて、異なる履歴を持ったホモ・サピエンスの集団がやってきた。

日本全国には旧石器時代の遺跡が1万ヵ所以上ある。これらの遺跡の年代は38000年前以降に集中している。この文化は、その後16000年前頃に縄文時代が幕を開けるまで連綿と続いていき、大きく途切れた様子は見られない。そのため、この突然の遺跡数の増大は、間違いなくホモ・サピエンスの到来を示していると考えられる。

 

日本列島へ至る3つのルート

氷期であった5〜3万年前の海面は、今より80mほど低かったので、現在より少し陸域が広がっていた。台湾は大陸の一部になっており、日本列島では瀬戸内海は存在せず、本州、四国、九州がつながっていた。北海道は、サハリンを介してロシアのアムール川河口域まで陸続きであった。日本列島への移入ルートは主に3つの可能性があった。

①対馬ルート(朝鮮半島〜対馬〜九州北部)
②沖縄ルート(台湾〜琉球列島〜九州南部)
③北海道ルート(サハリン〜北海道)

 

最初の日本人は海を越えてやってきた

38000〜37000年前という列島最古の遺跡は、南九州と本州の中央部に存在する。これに対し、北海道や沖縄地方の遺跡は3万年前と年代がやや新しい。最初の渡来ルートは、対馬ルートだったようだ。

海面が80m低かった当時も対馬は島であり、朝鮮半島と日本列島側に、それぞれ40kmほどの海峡が存在していた。列島へ渡ってきた集団は、この海を越えなくてはならず、移住には舟が必要であったに違いない。彼らは本州の全域に広がっていった。

対馬ルートから渡来した最初の日本人のルーツは、アジア大陸の文化が交差した、あるいは混じり合った可能性を考えるべきである。北方系文化の指標と言える石刃技法および南方ルート由来の海洋渡航技術の両方がもたらされた。つまり、対馬ルートを渡ってきた集団は、どうやらアジア南北の両集団が何らかの形で混じった人々だったようである。