乱読のセレンディピティ

発刊
2014年4月1日
ページ数
205ページ
読了目安
201分
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思いがけない事を発見するための読書術
「知の巨匠」と称される著者が、思いがけない事を発見するための読書術を紹介しています。情報が溢れる時代には、本は乱読で良いと説く。

本は買って読むべきである

もらった本はありがたくない。ためになる事が少ない。反発する事が多い。どこの誰が書いたかはっきりしない本から著者自身も考えていなかったような啓示を受ける事がある。本は身銭を切って買うべし。そういう本から思いがけないものを恵まれる。

この頃は図書館が整備されているから、買わなくても借り出して読む事ができる。しかし、タダほど高いものはない。自分の目で選んで、自分の金で買ってきた本は、自分にとって、タダで借り出してきた本より、ずっと重い意味を持っている。本を選ぶのが、意外に大きな意味を持っている。人からもらった本がダメなのは、その選択ができないからであり、図書館の本を読むのが面白くないのも、いくらか他力本願的なところがあるからである。溢れるほどの本から何を求めて読むか。それを決めるのが大変な知的活動になる。

 

乱読こそが面白い

本を買って読む。読めないものは投げ出す。本に義理立てして読破、読了していれば、物知りにはなるだろうが、知的個性はだんだん小さくなる。手当たり次第、これはと思うものを買ってくる。そうして、軽い好奇心につられて読む。乱読である。本の少ない昔は考えにくい事だが、本が溢れる今の時代、最も面白い読書法は乱読である。

本は読み捨てで構わない。本に執着するのは知的ではない。本を読んだら忘れるにまかせる。心に刻まれない事をいくら記録しておいても何の足しにもならない。

 

読書をすすめるのはしばしば逆効果である

人間には天の邪鬼なところがある。すすめられるとうるさく感じるし、禁じられると手を出したくなる。読書推進を本当に考えるなら、本を少なくする事だ。年に何万点もの新刊が出るという話を聞くだけでも、読書欲は萎縮する。

食べるには空腹でなくてはならない。空腹にまずいものなし、と言われるように、本を読むなと言われると、何でも読んでみたくなる。読ませたかったら、まず、読む事を禁止するのが案外、最も有効な手となる。

 

知識と思考

知識はすべて借り物である。頭の働きによる思考は自力による。読書家は、知識と思考が相反する関係にある事に気が付くゆとりもなく、多忙である。知識の方が思考より体裁がいいから、物知りになって、思考を圧倒する。

本当にものを考える人は、いずれ、知識と思考が二者択一の関係になる事を知る。つまり、物知りは考えず、思考をするものは知識に弱いという事に思い至るだろう。人間は知識だけでは生きていかれないし、よりよく生きていく事など思いも及ばない。知識メタボリック症候群にかかっていては、健全な生き方をしていく事は叶わない。

 

ジャンルにとらわれない

読み方には2種類ある。1つはテレビで見た野球の試合の記事のように書かれている事柄、内容について、読む側があらかじめ知識を持っている時の読み方である。これをα読みとする。もう1つは、内容、意味がわからない文章の読み方で、これをβ読みとする。α読みは基本的な読み方だが、これだけではモノが読めるようになったとは言えない。知らない事が書いてあると、お手上げになる。どうしてもβ読みができるようにならないといけない。

乱読ができるのはβ読みのできる人である。小説ばかり読んでいては乱読できない。β読みもうまくいかない。ノンフィクションが面白くなるには、β読みの知能が必要である。哲学的な本が面白くなるには、かなり進んだβ読みの力が求められる。

β読みの力のない人は、自分の親しむ1つのジャンルにしがみつく。乱読はジャンルにとらわれない。とにかく小さな分野の中にこもらない事だ。乱読なら、専門主義、瑣末主義が見落としてきた大きな宝を捉える事が可能である。

 

乱読のセレンディピティ

本を読む時、2つの読み方がある。1つは本に書いてある事をなるべく正しく理解する読み方で、普通の読書はこれによっている。人の書いたものを正しく理解できるものかどうか、考えると厄介な事になる。100%わかったつもりの本も、実は本当にわかっているのは、70、80%。残りの不明な部分は「解釈」によって自分で補填しているのである。従って、本を正しく読んだという場合でも必ず、自分の働きで補充した部分があるはずで、全く解釈の余地のないものは、1ページも読む事はできない。

それに対して、乱読の本では、よくわからないところが多い。本の内容がそのまま物理的に頭の中へ入るという事はまずない。わからないから、途中で放り出すかもしれないが、不思議な事に読み捨てた本はいつまでも心に残る。感心して読んだ本なのに、読んだ事も忘れてしまう事が少なくない。

こういう乱読本は読むものに、化学的影響を与える。全体としては面白くなくても、部分的に化学反応を起こして熱くなる。発見のチャンスがある。専門の本をいくら読んでも、知識は増すけれども、心を揺さぶられるような感動はまずないと言って良い。それに対して、何気なく読んだ本に強く動かされるという事もある。学校で勉強する教科書に感心したという事は少ないが、隠れ読みした本から忘れられない感銘を受ける事はありうる。

人間は少し天の邪鬼にできている。一生懸命である事より、軽い気持ちでする事の方が、うまく行く事がある。何より面白い。この面白さというのが化学的反応である。化学的な事は、失敗が多い。しかし、その失敗の中に新しい事がひそんでいる事があって、それがセレンディピティにつながる事がある。

一般に乱読はよくないとされる。しかし、乱読でなくては起こらないセレンディピティがある事を認めるのは新しい思考と言っていい。