資本主義の構造的な限界
資本主義経済は、お金を稼ぎさえすれば生活に必要なものを獲得できる仕組みとして導入された。お金さえ稼ぎさえすれば、他者の労働の成果物を獲得できるということが、私たちの獲得した「自由」に他ならない。
資本主義以前において人は生活に必要な物資を獲得するために「緊密な人間関係」を維持する必要があった。人々の生活の基盤は具体的な人間関係に依存しており、その関係の中で生活に必要な物資を獲得しなければ生きていけない状態があった。しかし、お金を稼ぐだけでその他のものはお金で交換できるシステムが導入されることで、人々は人間関係の束縛から「自由」になることができた。
ただ実際のところ、何をするのも「自由」なはずの社会の中で、「お金さえあれば」という条件が明白な規範を形成する。お金を稼ぐために私たちは資本主義が示す「道徳」に従わなければならない。とりわけ、はじめにお金を持っていない人間にとっては、お金を得るために専門的なスキルを身につけ、厳しい競争の中で勝ち残らなければならない。各人はそうして自分の欲望を実現するために資本主義経済の規範を内面化することが求められる。
その時々の人々の欲望の総合によって「よい/悪い」が決められる資本主義のシステムは、非常に柔軟性高く問題に対処できる。しかし、全体の問題は「神の見えざる手」によって自ずと解決されるはずだという考え方は、いつでも上手くいく保証はない。各人の限定された視野の中で「フェア」な競争を重ねたとしても、システム上見えなくなっている場所に問題が転化される現象を抑制することは困難なのである。
従来の贈与経済の問題
構造的に格差を生み出す資本主義経済を乗り越える運動として特筆すべき影響を世界に与えたのは、マルクス主義とファシズムだろう。しかし、新しい社会を作るための「理念」を掲げ、その理念へのコミットを軸に展開される運動には、どうしても「一般意志の共有」の問題が発生してしまう。「同じ理念」を共有することで社会を変えようとする方法は、対立する「正義」を許容することができず、結果として否応なく排除を生み出す。
では、そうやって理念を共有する以外に社会を変えていく方法はないのか。「お金」を媒介にして他者の労働の成果を得るのが資本主義経済の仕組みだが、贈与経済は、資本主義経済とは異なる論理で社会的に富を分配する仕組みを作り上げていた。
贈与経済とは贈与を媒介として社会全体で富の再分配が行われる仕組みである。しかし、贈与経済は贈与することにインセンティブが発生する仕組みを持っており、その中でしばしば贈与競争と呼びうるような事態が発生する。他者から贈与された物には元の所有者の権利のようなものが残っていて、そのために返礼の義務が生じると考える。贈与の連鎖は、こうした自分が何かを他者に負っているという感覚を基礎に続けられていく。
そう考えると、贈与経済によって発生する「束縛」を解消する道筋が閉ざされてしまう。贈与が直ちに負債感を発生させ「返礼の義務」を課すとなると、人々がその関係から自由になる可能性が絶たれることになる。これは結果として、階級化された身分制の社会を生み出すことになった。
贈与経済2.0
贈与経済は、そのままの形では資本主義経済のオルタナティブとして機能し得ない。贈与による「負債感」の発生を構成要素として積み上げられる贈与経済は、ごくごく自然なやり取りの中で隷属を発生させうるものになっているからである。
しかし、贈与には社会的な義務で人を縛る「手前」の段階がある。他者から何かをもらった時、最初に発生するのは「それが何を意味するのかわからない」という事態である。その「意味」が明らかになり、もらったことで自分が何をしなければならないかが明らかになるのは、その次の段階である。負債感を伴った「返礼の義務」は、贈与の「意味」が共同体の中で共有されることで発生する。
共同体の中で意味が共有される手前にある地点を確保することによって、私たち自身が自分のコミットできる人間関係を自由に構築する可能性が見出される。贈与の連鎖の中で同意した覚えのない物語に強制的に加入させられるのではなく、自らのコミットメントによって主体的位に引き受けられることで、私たちは「共同体を作る自由」を手にすることができる。
贈与経済2.0を導入するには、贈与を受けた側が「ありがとう」の記録として、その感謝をブロックチェーン上に刻む必要がある。そのために贈与を受けた側は、相手に一定量のトークンを送る。トークンはそれ自身価値を持つものではない。そうすることで、贈与経済の束縛的な側面から解放される。さらに1つの贈与から引き出される物語は1つに限定される必要がなくなる。贈与はそこで、人々の関係を束縛するものではなく、関係を生み出す力として機能することになる。