禅マインド ビギナーズ・マインド

発刊
2012年6月20日
ページ数
308ページ
読了目安
312分
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ジョブズが愛した禅のバイブル
スティーブ・ジョブズが青春時代にむさぼり読んだ、禅のバイブル。世界中で禅の入門書として読まれている。

常に初心者でいること

禅の修行で一番大事な事は「2つ」にならないという事である。私達の「初心」はその中にすべてを含んでいる。それは、いつも豊かでそれ自体で満ち足りている。この、それ自体で満ち足りている心の状態を失ってはならない。これは「空の心」、それゆえ、常にどんな事も受け入れる用意がある心である。心が空である時、どんな事にも開かれている、という状態にある。

 

初心者の心には多くの可能性がある。しかし、専門家といわれる人の心には、それはほとんどない。いろいろな事を分け隔てすると、自分で自分の限界をつくってしまう。何かを求める事が強すぎたり、欲が強すぎたりすると、心は豊かで満ち足りた状態ではなくなっていく。

自分中心の思考がない時、私達は本当の初心者である。この時、私達は初めて何かを学ぶ事ができる。初心者の心は、すべてを受け入れる慈悲の心でもある。心が慈悲に満ちている時、それは無限なものになっている。

 


未来について、固定した考え、あるいは希望などを持っていると、今、ここにおいて、本当に真剣にはなれない。「明日、やろう」「来年、やろう」などという。今日存在するものは、明日も存在すると考えている。しかし、永続的に存在するような確かな道などない。誰かによって用意された道はないのである。一瞬、一瞬、私達は自分の道を見つけなければならない。完全性という考え、あるいは誰かによって、あるいは誰かによって用意された完全な方法などというものは、私達にとっては真の道ではない。

 

私達1人1人が、自分の真の道をつくっていかなければならない。そして、それをする時に、その道は普遍的な道を表わすのである。一番いいのは、自分を理解する事である。すると、すべてが理解できる。自分の道をつくろうと一所懸命になると、人を助ける事になる。その時、あなたは人から助けられる。私達は、真の理解は空から生まれる、という。

 

無を信じる

無を信じるという事が必要である。つまり色や形を何も持たないもの、すべての形や色が現れる前に存在しているものを信じなければならない。どのような神や教義を信じるにしても、それに執着してしまうと、信仰は多かれ少なかれ、自己中心的になる。自分を救うために、完全な信仰を求める。このような完全な信仰を獲得するには時間がかかる。そして、その理想像を実現しようとするために、落ち着く暇がない。

しかし、見るものすべてが無から現れたものとして受け入れるように準備していて、特定の色や形を持った現象は、何か理由があってそう現れているのだと知ると、その時、あなたは完全な落ち着きを得る。

無はいつも特定の形をとろうと待機している。その働きには、規則、理論、あるいは真実がある。このような存在が、人間の形をとった時、それをブッダと呼ぶ。この理解は非常に大切である。この真理の上に、私達の活動や思考、そして修行の基礎が置かれてなければならない。

 

意識を超えて

自分を平安にするということ、特定の考えに固執しないという事がポイントである。何かが気がかりであると、完全な落ち着きには達しない。完全な落ち着きに到達するには、何もかも忘れてしまう事である。その時心は平静で、物事を何の努力もなしに、ありのままに見る事ができるほど、広々として透明なものになる。完全な平安を見つけるには、何であれ、物事に対するどんな考えも持たない事である。

すべてをありのままにしておく。するとどんな物事も、あまり長い間心にはとどまっていない。やがてあなたは透明で、空の心を長い時間持つようになる。

 

呼吸

人生に対する通常の見方は、非常に二元的である。あなたがいて私がいる。善があって悪がある。しかし、こうした区別というものは、それ自身、宇宙という存在が気がついている、という事なのである。「あなた」というのは、宇宙があなたという形をとって、宇宙自身が気がついている。「私」というのは、宇宙が私という形をとって、宇宙自身に気がついている。あなたと私は、ただの回転扉にすぎない。そこで、坐禅の修行をする時には、時間とか空間という観念はなくなる。ただ座り、宇宙の活動に気がついているだけである。私達がすべき事は、その時、その時、すべき事をするだけである。今、この瞬間に生きるべきなのである。ただ、座って、息に集中する。その時、私達は回転扉になる。

 

心の波

修行をして、本当に落ち着いた静かな心を見つけるには、長い時間がかかる。様々な感情、思考、イメージが起こる。しかし、それはあなた自身の心の波である。あなたの心の外に起こるものは何もない。何かが心の外で起こったと見えるが、実際は心の中に現れたという事である。あなたが自分で心の波を起こしているのである。もし、心をあるがままにしておけば、心は落ち着く。

どのような努力も、修行のためにはよくない。それが心に波をつくり出すからである。しかし、何らの努力もなしに、心の絶対の静寂を得る事もできない。努力をしなければならないけれども、努力をしているという自分を忘れ去らねばならない。できる限り、心と身体で、何の考えも得ようともせず、最善の努力を続ければ、その時、何をしようと、あなたの行う事は真の修行になる。真の「空」は、あなたの修行で認識される。

 

神は与える

何ものにも執着しない、という事は与える事である。与えられるものが何であれ、それは問題ではない。私達は毎日、毎日、自分が何をしたのか、忘れるべきである。そして、何か新しい事をすること。これが本当に「執着しない」という事である。過去を知っても、ただ行った事にとらわれなければいい。後悔はしない。ただ振り返るだけである。そうすれば、これから何をしたらいいのかわかってくる。未来は未来であり、過去は過去であり、今だけが新しい事をする時である。これが私達の生き方である。

 

無常ということ

すべては変化する、無常であるという事を受け入れないと、完全な平静さ、平安さというものがわからない。しかし、無常という事を受け入れ難いがゆえに、私達は苦しむ。

苦しみの中に喜びを見出す事が、無常という真理を受け入れる道である。そのような努力をしなければならない。困難さは喜びである、という事を受け入れるまでに強くなる。それまで努力を続けなければならない。私達は自分に正直であれば、この真理を受け入れるのは、それほど難しい事ではない。