アマゾンは金融工学の会社から生まれた
今、アマゾンは「地球最大の書店」や「ウェブ最大のスーパーストア」などと自称しているが、元々は、ニューヨーク高層ビル街のとある事務所で漂うアイデアに過ぎなかった。ウォールストリートの異端児で、高度な数学モデルを駆使するクオンツヘッジファンド、D・E・ショーの事務所だ。
1994年の始め頃、インターネットの活用について、ベゾスとショーらの検討から、様々な事業計画が生まれるようになった。一つは広告を収益源とする無料電子メール、オンライン証券、そしてエブリシング・ストアと名付けたものだ。基本的な考え方は「インターネット企業がメーカーと消費者をつなぎ、世界に向けてあらゆる商品を販売する」というもので、アイデア自体はシンプルだ。
すぐにエブリシング・ストアを実現するのは無理だが、その肝となる点「無限の品ぞろえ」を1種類の製品について実現する事なら可能だとベゾスは考えた。だが、D・E・ショーの新事業として立ち上げたのでは自分の会社にならない。ベゾスは退職してオンライン書店を始める準備に入った。
アマゾンの誕生
ベゾスが起業場所にシアトルを選んだ理由は、技術の街として有名であった事と、カリフォルニア州などと比べ、人口が少なく売上税を徴収しなければならない顧客の割合を低く抑えられるからだった。仕事場は、全員で力を改装したガレージだ。最初の机2つは、ホームセンターから1枚60ドルで木製ドアを買い、ベゾスが手作りしたものだった。
1994年、辞書の「A」で始まる部分をじっくり検討したベゾスは「アマゾン」を見つけ、新しいURLを取得する。1995年春、β版ウェブサイトのURLを友人や家族に知らせた。ウェブサイトは文字ばかりで飾り気がなく、性能が低い当時のブラウザや遅いインターネットに合わせた造りとなっていた。しかし、見た目は大した事がなかったが、ショッピングカートやクレジットカード番号を安全に入力する方法、簡易な検索エンジンも用意されていた。この程度でも、当時は最先端の技術であった。
1995年7月にサイトが正式公開され、1週間で受注は1万2000ドル、出荷は846ドル分になった。正式公開の1週間後、ジェリー・ヤンとデビッド・ファイロから電子メールが届いた。ヤフーでアマゾンを取り上げようかという問い合せだった。立ち上げから1ヶ月で販売実績が全米50州と世界45カ国をカバーするほどとなった。
ベゾスは資金調達に走り回る。100万ドルを調達し、1996年に入る頃には、月に30〜40%も売上が伸びるようになっていた。その夏、大きなイノベーションが登場する。書籍を買うよう顧客をアマゾンに誘導すると、誘導したウェブサイトに紹介料が入る仕組みである。アマゾンにとっては他のサイトまで傘下に置くようなものであり、早い段階でそうした結果、その後登場する競合サイトに対して有利な立場に立つ事ができた。秋になると、ユーザーに合わせたサイトのカスタマイズが始まった。アマゾン社内ではブックマッチと呼ばれた機能で,ユーザーが何十冊か本を評価すると各自の好みに応じた推奨本を提示するものだった。
エブリシング・ストアへ
1998年、ある調査の結果がもたらされた。消費者の大部分は本をめったに買わず、だからアマゾンを将来使う事もまずないというものだ。この調査がきっかけとなり、ベゾスは製品カテゴリーの拡大を急ぎ始めた。拡大のターゲットはまず音楽、次がDVDとなった。つまり、エブリシング・ストアへと変化していく。
会社が成長すると、ベゾスの野心は誰も想像できなかったほど大きなものだという事が明らかになっていく。ベゾスがウォルマート幹部の引き抜きに力を入れ始めたのだ。今の10倍大きな物流システムが欲しい、米国だけでなく、アマゾンが最近進出した英国とドイツもカバーする物流システムが欲しい、それがベゾスの望みだった。
アマゾンの中核価値
狂乱の成長の大混乱の中でも、ベゾスは会社文化の浸透に手を尽くした。どのような価値をアマゾンは重視するのかを検討した結果、中核をなす価値として会議室のホワイトボードに書き出されたのは次の5つだった。
・顧客最優先
・倹約
・行動重視
・オーナーシップ
・高い採用基準
後にイノベーションが追加され、アマゾンの中核価値は6つとなる。この中核価値は、事務所や物流センターの壁に貼るほか、様々な形で社内浸透が図られた。高い採用基準の維持については、マイクロソフトを参考にした。経験豊富な幹部社員を面接責任者とする事により採用基準のぶれを防いでいるのだ。
ウォルマート創業者、ウォルトンが提唱した行動重視を社内に定着させるため、ベゾスは、「とにかくやってみよう」賞を設けた。自分の担当ではない分野で自発的に動き、特筆すべき事をした社員を表彰するのだ。
我々はアンストアだ
アマゾンはあらゆる意味でどんどん大きく、複雑な会社になっていった。社員数は1998年末に2100人、2004年末には9000人と膨らむ。ドット・コム・バブル崩壊の余波が収まると、スポーツ用品、アパレル、宝飾品などカテゴリーも増やせば、日本や中国など新しい国にも進出した。
2003年、ベゾスは、アマゾンのコンセプトを表す新しい言葉を思い付く。アマゾンは非商店だというのだ。非商品であるとは、小売業の常識に縛られる必要がない事を意味する。アマゾンは棚が無限にある上、顧客1人ひとりに合わせてパーソナライズされている。肯定的なレビューだけでなく、否定的なレビューも書けるし、中古品を新品に並べて販売し、顧客が十分な情報をもとに選べるようにしている。ベゾスにとってアマゾンとは、エブリデーロープライスと素晴らしい顧客サービスが両立する場所なのだ。
キンドル誕生
2004年、デジタル音楽でアップルの独走が続く中、アマゾンでは事業の見直しが進められた。この年、書籍と音楽、映画で売上の74%が占められていた。アップルの成功から推測されるように、これらのフォーマットがデジタルへ移行していくのだとすれば、急いで対策を講じないと手遅れになってしまう。
ベゾスは、新たなデジタル時代に書店としてアマゾンが栄えていくためには、自社で電子書籍事業を展開しなければならないという結論に達する。その頃、ベゾスら経営幹部は、アマゾンの戦略に大きな影響を与える本を読み、その内容を熱心に検討していた。『イノベーションのジレンマ』である。この本に感銘を受けたベゾスは、書籍部門からデジタル事業の責任者に任命したケッセルにこう言った。「君の仕事は、今までしてきた事業をぶちのめす事だ。物理的な本を売る人間、全員から職を奪うくらいのつもりで取り組んで欲しい」