「つくる」の価値はプロセスにある
「つくる」とは何か。折り鶴をつくることから考えると以下の特性がある。
工程:直線的
成果:わかりやすい
大事な点:スキル(技術)
進行:インストラクティブ(段階的)
評価:成果
活動単位:個人
これを「折り鶴モデル」と呼ぶ。現代で日常的に出合う「つくる」という行為は、多くがこの要素を満たしている。「折り鶴モデル」が普及している一番の理由は「わかりやすさ」にある。「つくったらこうなる」という成果が見えるのである。
一方で「折り鶴モデル」と対をなす概念として「砂場モデル」がある。公園にある砂場では、平らな砂場から様々な状態に変化する。砂場は一度つくっても簡単に元に戻せる。これには以下の特性がある。
工程:円環的
成果:わかりにくい
大事な点:コミュニケーション(関わり)
進行:ジェネレーティブ(生成的)
評価:プロセス
活動単位:共同体
同じ「つくる」であっても、大きく2つに分類することで、異なる特性が見えてくる。「つくる」には「折り鶴モデル」と「砂場モデル」の間に「転換」の存在がある。これを「逸脱スイッチ」と呼ぶ。人、道具、材料によって、このスイッチが押されると、日本人は「あ」と言う。逸脱スイッチは、瞬間の行為になるので成果・評価はない。工程は「突発的」で、大事な点は「アイデア(思いつき)」になる。進行はハイパーアクティブ(多動的)に展開される。
「つくる」にじっくり取り組むと、「折り鶴モデル」「砂場モデル」、その間に存在する「逸脱スイッチ」がそれぞれ立ち現れて、往還しながら「つくる」を形成する。
「砂場モデル」の最大の弱点は、成果のわかりにくさにある。「折り鶴モデル」は成果が見込める。つまり、他者から見て「学び」が明確である。一方で「砂場モデル」は他者から見て「学び」が不明確である。何を学んだのか、客観的に見えづらい。
しかし「砂場モデル」はわかりづらいだけであって、「学び」は確かに存在している。学びとは、単なる知識の習得ではない。学びには終わりがなく、ずっと続いていく「探求のプロセス」であり、私たちは「知識を生み出している」のである。砂場で遊んでいる子供達は「発見と創造」を繰り返し、自ら知識をつくっているのである。
「つくる」を語る時、多くの人は完成形を想像して「できる」「できない」「得意」「苦手」を判断する。「つくる」とは行為を指すはずなのに、結果・成果とセットで語ったり、想像したりする。本来は「つくる」行為そのものに、成功も失敗もない。
大切なのは、知識が生まれる瞬間は、結果・成果という最後に訪れるわけではなく、その瞬間瞬間のプロセスに現れてくる。「つくる」ことの価値は途中にあるのである。学校の図工も美術も、先生から技術を提供されるのではなく、実際に手足を動かしたり、物をつくったり、複数の人と協力したりして、自らが知識をつくっていく営みなのである。つくる過程に注目すると、そこには必ず発見と創造が隠れている。
完成を目指さずにアイデアと学びを得る
つくる目的を、完成させることではなく「プロセスにしか起きないコミュニケーションを味わうこと」と捉えると、違う世界が見えてくる。事前に予測できないが、ヒトとヒトのコミュニケーションによって「あ! そういうことか!」と自分たちだけの発見をし、自分たちなりの答えを見つけてしまう。このプロセスこそ、発見と創造であり、自分自身で学びを形成するということである。
つくることを通じて、対話と思考の深まりを楽しむこと、即興的・生成的な造形活動を通じた対話を「造形対話」と呼ぶ。誰かと一緒にモノをつくる時、人と人の間に「モノ」が入ることで「三角の関係」をつくることができる。「三角の関係」はコミュニケーションを円滑にする。共同的に手を動かすとモノとヒトを同時に見て思いつきを発出させたり、互いの想いや考えを交換したりすることができる。モノはつくる行為を経て、刻々とその姿形を変化させていく。その都度、ヒトとヒトの交流も変化し、相互理解が深まる。
相手が「思いつきの発出」をしたら、「いいね!」「おー!」といった感嘆詞で受け止めると、相手も自分も「思いつき」が言いやすくなる。もう1つ「Yes, and」の姿勢もいい。相手の「思いつきの発出」に対して、賛同や共感して、さらに自分も「思いつきの発出」をする。そうして、自分なりの新しい考え方や見方を得る。
造形対話は、成果物の完成を目的とせず、手段とする。造形対話は、新しい考え方やものの見方を得ることを目的としながらも、成果物・作品の完成やクオリティにはこだわらないことを最大の特徴とする。最初から対話することを目指しているので、この活動で現れるものは、成果物ではなく「経過物」でしかない。したがって、参加者が求めるならば、どこまでも円環的に探求することができる。