野球に力を入れるつもりはない
弘前学院聖愛高校は、1886年に創立された青森県で3番目に古い歴史を誇る名門校である。キリスト教系の女子校だったが、2000年に共学へ移行することになり、そのタイミングで硬式野球部を新たに作るという話が持ち上がった。男子学生を呼び込む起爆剤の1つとして期待したのだろう。
野球部監督採用の面談では、校長から「野球に力を入れるつもりはない。そのつもりなら、あなたのような無名な人は呼ばない」と言われた。監督といっても役職は事務職員で、条件は1年契約の年俸200万円、社会保険なしだった。
青森県には、光星(八戸学院光星高校)と山田(青森山田高校)という、全国の高校野球界に名が轟く2強がいる。その中で、誰からも期待されない無名監督が就任した聖愛野球部は、13年目の2013年に夏の甲子園に初出場、21年には2度目の夏の甲子園出場を果たした。
ゼロからのスタート
2001年、聖愛高校に硬式野球部が誕生した。学校からは「グラウンドは準備したから後は頼む」と言われたが、肝心の部員は10人。その内、中学までの野球経験者は5人で全員レギュラー経験はなかった。10人の内、一期生の学年で最後まで残ったのは、マネージャーを引き受けてくれた女性部員と、キャプテンになった男性部員だけだった。
学校から聖愛野球部へ支給された年間予算は、初年度10万円。ボールとバットの購入であっという間に消えた。グラウンドはあったが、打撃練習に不可欠なバッティングケージもなければ、スタッフルームも室内練習場もない。そのグラウンドも手を加える必要があり、部員とその保護者と一緒にすべて手作りで改良した。
2001年、創部3ヶ月後に夏の県大会予選に出場したが、初戦の結果は2対29の5回コールド負け。翌2002年は初戦で4対12で7回コールド負けを喫した。「聖愛って女子校だべ」「監督の原田って誰よ」と初めは無視状態だったが、ボロ負け続きでも夏の県大会予選に出たことで、聖愛に硬式野球部アリと認知されるようになった。すると「聖愛に行けばレギュラーになれるかもしれない」という淡い期待を胸に野球経験者たちが集まるようになった。
創部3年目には県内有数の強豪校に競り勝ったことにより、周囲の評価はガラリと変わった。単なる野球経験者ではなく、中学でレギュラーとして活躍していた選手たちが入部するようになった。創部5年目の夏の県大会ではベスト4まで勝ち進んだ。学校が野球部を見る目も変わった。2009年には春の県大会、秋の県大会ともに決勝まで進出し、光星、山田に次ぐ第三勢力として聖愛が一層知られるようになり、県内でもトップクラスの選手が集まるようになった。この年に、ようやく正職員として聖愛から雇用された。
聖愛の強さの秘密
屋外スポーツである野球部には、雨天時の練習用に室内練習場が必要である。さらに青森は冬になると雪が降り積もり、グラウンドが使えなくなる期間が長い。野球部専用の室内練習場を作ると2億円くらいかかる。半ば諦めていたところ、部員の保護者から「農業用ビニールハウスを室内練習場として使えませんか」という提案を受けた。そして部員と保護者と一丸になって、創部2年目の時にビニールハウスが完成した。
12〜3月までは、ビニールハウスで室内トレーニング。力を入れるのはフィジカルトレーニングである。4ヶ月間鍛えると、選手たちのフィジカル面は見違えるように成長する。そもそも選手たちは野球が好きで入ってきているので、フィジカルトレーニングは後回しにしがち。その点、聖愛は雪が降るおかげで、冬場はフィジカルトレーニングをメインに鍛えることができ、それが強さにつながっている。
「野球部の強化=寮での生活指導」だから野球部寮が欲しかった。スポーツでは心技体が大切である。そのうち何より難しいのは「心」を整えること。技術やフィジカルがあっても、心が乱れたら実力を発揮できない。その心を整えるメンタルトレーニングとして最も有効なのは、生活指導を通じた凡事徹底である。普段の生活こそがその人をつくり上げる。校長の助けで銀行からリフォーム資金を含めて1600万円の融資を受けて、2002年、野球部に欠かせない野球部寮もできた。
聖愛にはグランドが1つしかなく、野球部が独占している訳ではない。平日は火水金の1日3時間限定。時間が限られているからこそ、聖愛の練習は密度が濃くスピーディである。自主性を重んじ、練習メニューは部員たちが自ら考える。前日に作ったメニューにアドバイスをし、それを踏まえて修正を重ね、内容をホワイトボードに細かく書き出す。部員はその日、自分たちがどんな目的と目標でどのような内容の練習をするかを細かく把握していく。何のために何をすべきかが明確なので、質の高い練習をこなせる。