文化的に食べるということ
美食とは「ガストロノミー」と言い換えてもいい。ガストロノミーとは「食事と文化の関係を考察することをいう。料理を中心として、様々な文化的要素で構成される。すなわち、食や食文化に関する総合的学問体系」である。
食事には3つの段階がある。
- 栄養摂取:生存としての行為
- うまい:本能としての欲求
- 美味しい:文化としての知的好奇心
食についての考え方は、人それぞれである。食べるのが好きという人でも、その多くは「うまい」がプライオリティになっている。「うまい」だけではない文化的要素を含む「美味しい」を探求することが「美食」である。
美味しいものを食べるという喜びがあることは、人生を豊かにする。しかし、ただ単に美味しいと評判の店に行けばいいということにはならない。美味しさがゴールではなく、どう美味しくしているのか、なぜその地で食べるのか、どんな歴史的な背景があるのか、どんなストーリーが紡がれているのか。そういうものを含めて楽しむことが、文化的に食べるということである。
食に限ったことではないが、文化的価値の評価は簡単ではない。定量的に図ることはできないし、客観的な基準があるわけでもない。しかし、絶対的な基準は存在しないとしても、少なくともその時代とコミュニティにおける価値観というのは何となく共有されていて、それに基づく優劣は存在する。
料理人含めクリエイターは、新しいものを作り出したり、今あるものをより良くしたりするために、日夜努力している。その結果として、それを享受する側が豊かな人生を送ることができている。クリエイターを応援するためにも、その業績に相応しい評価をすることが大事である。
料理の価値
行く価値があるお店の定義は、料理人が料理を突き詰めて考えている店である。料理というのは、良い食材を集めたら良い料理ができるかというと、必ずしもそうでない。例えば、最高級の黒毛和牛に最高の米、最高の調味料を合わせても、最高の牛丼にはならない。牛肉自体が繊細すぎて、パンチが弱くなってしまう。逆に質が若干低くて雑味のある和牛や輸入牛の方が牛丼としての完成度は高まる。
優れた料理人の手によって、どこにでもある食材、誰にでも手に入る食材がびっくりするくらい美味しい料理として生まれ変わる。こういう料理の背景には、シェフ独自のクリエイティビティがあったり、代々受け継がれてきた技術があったりする。そこに魅力を感じる。
美食の基準
単純に食欲の赴くままに「うまい」という快感のためだけに食べるのは、文化的な食としては捉えない。また、個人的な好みで判断することもない。美食を評価するために、心がけているのは次の2点である。
①その料理がどれだけ考え抜かれているか
世の中には、昔ながらの伝統の味を受け継いでいる店がたくさんある。それはそれで素晴らしいが、受け継がれたレシピをそのまま再現しているだけなのか、それをベースにより良くしようとしているかでは、雲泥の差がある。
食に限らず、すべてのクリエイティブ領域では、いかに考え抜くかによって、本当にいいもの、純度の高いものができる。その思索と苦闘の過程に注目する。考え抜いているかどうかは、料理について質問するとすぐにわかる。考え抜いている人は、皿の上のすべての要素について、なぜそうしているか、ロジカルに答えられる。
②シェフが自分の考えをどこまで体現できているか
いくら料理を考え抜いて素晴らしいものに辿り着いたとしても、それを実際に皿の上に落とし込めていないと、意味がない。そのためには技術面が大事になってくる。
美食の見方
美食を体験する上で「何を見るべきか」」を知っておくのは重要である。その自分なりの基準がなければ、1万回食べても、1回も食べてないのと同じといっても過言ではない。鮨を例にすると以下の通り。
- 魚介の扱い方、切りつけはどうか。並べ方はどうか
- 握る時に魚介が適切な温度になっているか
- 酢飯の米はどういう根拠で選んでいるのか。食感、風味などがその店の方向性に合っているか
- 酢は何を使っているのか。白酢、赤酢、ブレンド、どういう考えを持っているか
- 選んだ酢と米がネタに合っているか
- 酢飯の温度はどうか。酢飯を補充するお弟子さんと息は合っているか
- 酢飯とネタが一体になって、1つの料理になっているか
- 口の中で酢飯とネタがほどけるスピードは同じか。どちらかが残ることはないか
考えながら食べること。美味しいと思ったとしたら、なぜ美味しいのか。それが食材の組み合わせからくるものなのか、味付けなのか、食感なのか、温度感なのか。料理人の仕掛けや目に見えない仕事を知ることで、より食を美味しいと楽しむことができる。