資本主義の限界
これから先1000年ぐらいを見越した時、人間は森や自然から日常に活かす力を受け取り、学び、取り戻していく必要がある。とりわけ重要なのは、企業の経営者のあり方である。現代社会では、企業が絶大な影響力を持っている。その中で経営者の考え方は企業の行動を大きく左右する。もし彼らが資本主義や科学技術の恩恵だけに基づいて、拡大成長、大量生産、大量廃棄のビジネスモデルを続けていけば、早晩、地球は取り返しのつかない状況になる。
近江商人の「三方良し」という言葉がある。「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三方が良いのが、良い商売だという商人の心得だが、これからのビジネスでは「世間」を社会や国と捉えるのは狭い。その周りにある自然や生態系、この地球を含んだ「宇宙良し」が当たり前になる。「森のような経営」というキーワードには、こうした感覚につながるところがある。
森のような経営
経営者として考えていたのは「自分に関わった人が『この会社で働けて良かった』とほんの少しでも幸せになってくれたらいいな」ということだけ。もちろん、そうならない人もいるが、自分の居場所は自分でつくるものだと考えているので、スタッフには「この会社を良い会社にしたければすればいいし、いたい会社にしたいのなら自分ですればいいんじゃないか」と言っていた。
「それぞれが自主的に動いて自分の居場所をつくる」という発想は、ティール組織における自主経営の考え方に似ている。これまでの組織の多くがピラミッド型で、必要以上にたくさんのルールを定めて社員を縛ってきたのは、社員を自立した個人とみなしてこなかったからだ。だからティール組織に注目が集まっている。
ティール組織と森はよく似ている。森にピラミッド構造はないし、トップダウンの指揮系統も存在しない。1本1本の木はそれぞれ悠然と生きているだけ。でも、森全体は豊かに維持されている。個々の木は周りを何も気にせず、ただすくすく伸びて、全体がうまくいっている。
「幸せになってほしい」という発想も、最近急激に広がっているウェル・ビーイングの考え方と同じである。昔は「顧客満足」が最優先とされていたが、今は従業員の幸せに目を向けるようになった。まず最初に従業員が幸せでなければ満足しないし、良いものはつくれないし、顧客の満足も得られないという発想で、完全に順番が変わってきた。
これまでは、上にいる人が計画を決めて「これをやれ」「やります」で動かせば、大体うまくやれた。だから大半の組織がそのやり方を採ってきた。ところが今はこのやり方だと回らなくなっている。経営者は中長期の経営計画を立てて「今後5年はこうやれば、このくらいいけるよね」と決められたし、社員もそれに基づいてしっかりやれば、ある程度の業績を上げられた。ところが、今は「不透明で不確実な時代」になったから、そのやり方ではうまくいかなくなっている。そのことに、みんな気づいてきている。
今、最善だと思うことを、みんなが必死に頑張ってやっていく
組織がそちらを向くためのポイントが、規律である。本当に野放しにしてしまったら、それは組織ではない。組織には、そこに属する全員が最低限守るべき規律というものがある。規律は、その組織に人が集まるための理由でもある。だから「僕らはどんな仲間なのか」という企業のあり方を明確に謳っている。集まる理由がどこにあるかが重要だから、「誇りの持てる場所であってほしい」とか「強くあること」を打ち出している。
それがあるから、それぞれが自由でありながらも、何もしない人は出てこない。逆に言えば、この組織にはいたくないという人もはっきりするので、辞める人もいる。むしろ、そうなるのが組織としては健全である。
森に入れば、木はバンバン倒れている。すべての木がすくすく育っているわけではない。それは摂理である。森全体の命を持続するためには、個々の木が死ぬのも摂理である。そうでなければ、次は生まれない。企業を森に、人を木になぞらえると、「みんな同じように育っていきましょう」というのはおかしいとわかる。
例えば森の中で1つのどんぐりが落ちて、すごく大きなカシの木に育ったとする。これを最初から計画して「10年後には、ここに高さ◯メートルのカシの木が育つようにしたい。そうならないと困る」と考えるのは、この世界で人間だけである。彼らは将来を予測しながら生きているのではなく、その時その時を必死に生きて、結果として生き延びていっている。だけど人間だけは「来年にはこうなっていなければならない」とか人生を設計してしまう。
自然の摂理からすればそれはおかしい。この地球の生態系において、人間以外の生き物たちはみんな「今この瞬間にできる最善のこと」を選んでやっている。それが上手くいくこともあれば、上手くいかなくて、消滅してしまうこともある。でも、それを嘆いたりはしない。