「信じ切る」に至れば、すべての結果に納得がいく
まずは信じる。そこから始めることが少なくない。また、「信じている」と言葉に出したりもする。WBCでも侍ジャパンの代表選手たちに「信じている」と言っていた。なぜなら、本当に信じていたからである。本当にそう思っているなら、言葉に出した方がきっと伝わると思っていた。
ただ、信じているといっても、不安になることもある。野球のような勝負ごとは、その日の調子もある。それでもだんだんわかっていったのは、これこそが勝負の綾になるということだった。最終的に信じ切れるかどうか、どこまで本気で自分がそう思っているか、こそが問われる。
WBCの準決勝、メキシコ戦。9回裏で日本は4対5と負けていた。しかし、信じ切っていた。選手たちは、きっとやってくれる。先頭バッターの大谷翔平は気迫のツーベースヒット。続く吉田正尚は四球を選び、ノーアウト一、二塁。ここで次のバッターは、この日4打席3三振の村上宗隆になった。
たくさんの選択肢がある中で、監督は瞬時に次の判断をしなければならない。バッター村上になった場面で浮かんだのが「最後は誰でやられたら納得がいくか」だった。それは村上だった。若くして頑張っていて、これから日本を背負うバッター。
点を取れる確率がそれほど変わらないなら、最後は人である。彼の生き様、それがもたらしたもの。もし、村上でやられたら、納得がいくと思った。こいつがやられても、「これしか選択肢がなかった」と思えるかどうかだと。
「お前でやられたら、オレは納得がいく」。これこそが、決め手だった。「信じ切る力」とは、そういうことだ。信じている、の一歩先にあるもの。どこまで本気で自分が信じられるかということ。
自分で見て感じたことを信じる
時に常識のようなものは、信じ切る力を揺さぶってくる。だから、常識に縛られてはいけないと、自分に言い聞かせている。例えば、大谷翔平という存在、そして「二刀流」がまさにそうだった。当初から、二刀流を一度たり疑ったことがなかった。但し、環境は心配していた。入団後もプロ野球に携わる多くの大人たちが、こぞって「無理だよ」と言っていた。当初は日本で二刀流に対して、「そんなことができるはずがない」という逆風が吹き荒れていた。
そこで、できるだけ批判の矛先がこっちに向くように意識していた。二刀流に懐疑的な人たちは、もしかしたら翔平の本質を知らないだけかもしれないと思っていた。
やるべきことをやり、信じ切らないと何も答えはでない。
「信じる」と「信じ切る」は、「なりたい」と「なる」の違いに似ているかもしれない。憧れてしまうのではなく、超えるイメージを持たなければ、そこには近づけない。野球の世界でも「なる」と言い切れる選手は少ない。
そして「なる」となったら、練習が変わってくる。毎日が変わってくる。「なりたい」では変われないことがわかれば、日常を変えようとする。今日は何をしなければいけないのかが具体的になる。「なる」選手は、これだけは絶対にやる、というものを持っている。そのスイッチは自分でしか入れることはできない。人は、自分が決めたことでなければ、やり切れない。
一流選手は「できるか、できないか」を考えていない。それよりも、「こうやりたい」から始まる。こういうバッティングをしたい、こういうプレーをしたいと考えている。
信じることは相手を変える
相手を信じたからといって、結果が出ないこともある。しかし、信じることは相手を大きく変えることになる。だからこそ、こちらから先に信じるのである。全員を信じるわけではない。やはり姿勢であったり、一生懸命さであったり、何かできるはずだと思えるなら信じる。
その意味では、信じてもらう側にも、思い、覚悟、やろうとする力、立ち向かうパワー、へこたれない力、生き方、生き様などが、問われることがある。努力を怠らなければ、誰かが見てくれている。準備を怠らなければ、チャンスをつかむことができる。
見返りを求めない
誰かを信じる時に大切なことは、見返りを求めないことである。チームが勝ちたいから、この人を信じる、というのは順番が違う。信じることが先にある。
結果が出ることは、信じている人が結果を出したというだけの話に過ぎない。信じてもらえたら、パワーは全開になる。しかし、そうなるには、信じる側が、本気で信じなければならない。なんとなく信じているではダメで、信じ切らないといけない。それでようやく、相手は信じられていることに気づける。
忘れてはいけないのは、信じること、信じ切ることは、自分のためではないということである。