それでも人生にイエスと言う

発刊
1993年12月25日
ページ数
218ページ
読了目安
229分
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すべての悩める人に「人生を肯定する」ことを訴えた感動の講演集
精神医学者である著者は、第二次大戦中、ナチス強制収容所において地獄に等しい体験をした。彼のその体験は、彼が人間の実存を見つめ直す機会となり、精神の尊厳を重視した独自の思想の展開につながる。

本書は、ナチスの強制収容所から解放された翌年、ウィーンの市民大学でその体験と思索を語った講演集である。

著者の体験と思索が平易な言葉で語られており、苦悩を抱える人、ニヒリズムに陥っている現代人すべてに救いを与える内容になっている。

siratori

生きる意味があるか

私たちは、人間としての生きている意味と価値を、絶対的に信じなければならない。

すべては、その人がどういう人間であるかにかかっている。強制収容所の体験の中でさえ、最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」であった。

それは、一人ひとりの人間の決断にかかっている。創造性を発揮し、言葉だけではなく行動によって、生きる意味をそれぞれ自分の存在において実現するかどうかにかかっている。

人間は楽しみのために生きているのではない。ふつうの人は、日常生活のなかで、快感よりもずっとたくさんの不快感を体験する。そのため、はじめから楽しみのために生きることは不可能である。また、楽しみのために生きる必要はない。

楽しみそれ自体は、生きている意味を与えてくれるものではない。よって、楽しみがないからといって、生きる意味はなくならない。

生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務である。人生には喜びもあるが、その喜びそのものを「欲する」ことはできない。喜びはおのずと湧くものである。

幸せは、決して目標ではないし、目標であってはならない。それは結果にすぎないのである。幸せというものは思いがけず手に入るものであり、それを得ようとすれば、いつも失敗することになる。

私たちが「生きる意味はあるか」と問うのは、はじめから誤っている。つまり。私たちは意味を問うてはならない。人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているからである。私たちは問われている存在なのである。

私たちは人生がたえず、その時その時に出す問い「人生の問い」に答えなければならない。生きること自体、問われていることにほかならないのである。その問いに答えることは、生きることに責任を担うということである。

つまり、「人生」という問いは、ただいつも「自分の」人生に責任をもって応答することで答えることができる。

未来がないように思われても、怖くはない。現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからである。その際、どんな未来が待ち受けているかは知るよしもないし、知る必要もない。

人生にイエスと言う

ブーヘンヴァルト収容所の囚人たちは、彼らの歌の中で「それでも人生にイエスと言おう」と歌い、それをいろんな仕方で行った。そのような条件と比べ、ましな状況にある私たちが、それを行いに移せない訳がない。人生はそれ自体に意味がある訳であり、どんな状況でも人生にイエスと言うことができる。