自由に生きるための技術
リベラルアーツとは「自由に生きるための技術」というような意味がある。「自由に生きる」とは、やることを「自分で自由に選択できる」こと。どんな立場に身を置いていても自己決定することが大事である。
自己決定には2つの段階がある。
- 選択肢を複数持つ
- 最適な選択をする
これらを実行する能力を合わせて自己決定力と呼ぶ。
選択肢を複数持つためには、3つの視点が必要である。
- 既知の選択肢を認識すること
- 未知の選択肢を見つけること
- 新たな選択肢をつくりだすこと
そして、選択肢が複数できたら、ようやくその中から自分や社会にとって最適なものを選ぶ判断力がものをいう。
これらの自己決定力を身につけるためには、次の3つの視点をメタ認知する必要がある。
- 世界の基本構造:論理的・数学的・客観的・科学的な視点、すべての思考の基盤となる言語
- 自分軸:自分自身の経験や価値観「真(何を信じるか)・善(何が良いことか)・美(何を美しいと思うか)」
- 最新の世界観:科学技術や社会インフラ、流行
世界の仕組みと自分自身を知り、現状に合わせることではじめて選択が織りなす物語は動き始め、人生を豊かにし、人々を巻き込み、壮大に展開していく。
自分を知る
学校に行きたくないという中高生に理由を尋ねると、圧倒的に多い回答が「学校や勉強の意味がわからない」というもの。学校や勉強が、自分の現在や未来とどう関係するのかがわからないという。関係がわからなければ、優先順位が下がってしまう。
私たちは知識や経験をもとに関係があるとかないとか感じている。多くの場合、それは先人たちによる分類や体系を基準に関係性を判断しているが、それは1つの視点に過ぎない。
一見関係ないもの、関係ないと思われていることに関係性を見つけ、対角線を引くことを編集と呼ぶ。同じ世界に存在している以上、直接的であれ間接的であれ、必ず関係はある。私たちは気づいていないだけで、あらゆる物事には意味が潜んでいる。
自分と深く関係があるモノやコトは何か。それを中心に浅いけれども関係があることも考えてみること。私たちはあらゆる人やモノ、コトと繋がれる一方で、近くに存在しているのに、遮断されているかもしれない。本当に自由になるためには、そういう構造に気づく必要がある。これをメタ認知という。
自分自分がどんな人間なのかを知り、自分の世界の境界を感じ、その外側の世界があることを知り、自分の世界をどんどん広げていくことで、より選択肢を多く持ち、自由度を高めることができる。選択肢は今見えているものだけではない。
論理的に考える
私たちはよく予測をしながら生きている。関係がありそうな情報や過去の経験を活用して、予測ができる。何か情報があれば、それを手がかりに無意識に確率を計算している。
しかし、この世界で起こることの原因は無数にある。様々な現象が連なって、結果に続いている。私たちは目立つ原因や関係が強そうに見える原因だけに気を取られがちだが、原因と結果を完全に1対1で結ぶことには無理がある。
人間には理性があるから、ある結果になった原因が気になる。原因を考えるということは、先に結果を認識しているということ。そして認識した「結果」から無意識に逆算して、存在を証明できない過去の記憶の中に無数にある原因の中から1つを選んでしまう。安易に1つの過去が原因と考えてしまうと、私たちはそれにとらわれてしまう。
何でもすぐに信じてしまうのではなく、正しく疑うことで、とらわれに気づき、自由な選択肢を増やすことができる。そして、本当に信じるべきことがわかってくる。
世界を認知する
人間の認識はそもそも怪しい。自分や自分たちだけに、違う世界が見えているかもしれない。二項対立や因果関係は思い込みかもしれない。間やその他が存在するかもしれない。そんなふうに世界の構造自体を外側へ向かって捉えたり、抽象化して認識していくことがメタ認知である。言い換えれば、自分自身を含む構造を客観的に自覚することである。
私たちはどこまで行っても。自分の主観から出ることはできない。私たちが客観と呼んでいるものは、実はおそらくこれが客観だろうと、自分の観点から見て判断したもの「主観的な客観」である。人間には先天的な認知バイアスもあるし、文化や環境、教育による後天的な偏りもある。それらを知って理解したとしても、そもそも同じものが他者にどう見えているのかわかることはできない。
だからまず、自分の認知や判断を疑う。そして、他者との違いを意識する。そういうメタ認知がコミュニケーションの基盤になる。私たちはそこから考えて、伝えていく。そんな困難な前提を受け入れつつ、それでも、できる限り他者とわかりあい、情報を共有しながら一緒に進んでいくためには、お互いができるだけ論理的に、客観的に考えようとすることが近道になる。