主観的価値と客観的価値
私たちは常識として存在している「市場原理のメガネ」を外す必要がある。自分たちの生活の中で大切な価値観や優しさは、市場原理ではなく、純粋に自分にとって楽しい、それが社会にとっても良いことだよね、という思いから生まれる。市場原理はそれを時に阻害し破壊する。
一般に、モノやサービスには値段が付いている。価値尺度が画一的に決められている。これは客観的価値だと言える。客観的価値の交換は効率的である。しかし、効率的な人生は、はたしてウェルビーイングなのか。
幼少期に楽しかったこと、初めて訪れた街での体験、学生時代に友達と腹を抱えて笑ったこと、大自然の中での息を呑むような感動。自分が楽しかったことや大切にしていることに、効率を求めた時点で楽しくなくなってしまう。非効率で一見無駄に見えることが、実は人生を豊かにしてくれている。
そこで感じている価値は主観的価値だ。主観的価値は非効率なものが多い。だから市場原理には合わない。経済合理性の観点で言えば、非効率に時間をかけるのは悪だが、主観的価値の世界では、自分の時間をかければかけるほど想いが強くなり、それがより大切な存在となる。自分にとって大切なものやことは他人から評価されなくて良い。ましてや値段をつけてはいけない。
今の現代社会では、ほとんどの人が客観という名の、同調圧力の下で主観を痩せ細らせている。客観を大事にしすぎて生きると、一見して協調性があるように見えても、そこには自分がいなくなってしまう。
自分のちょっとした感情の変化に目を向けてみることは、主観を取り戻す簡単な方法の1つである。
主観的価値を流通させる仕組み
客観的価値の流通が増えると、経済活動が活発になりGDPに寄与する。一方、主観的価値の流通が増えると、精神的なウェルビーイング、心の豊かさを得ることができる。
1人1人の主観的価値を増やしていくことで、社会全体として、コミュニティの強化、ソーシャルキャピタル、防災に寄与する等々、持続可能な社会システムができていくのではないか。
主観的価値を流通させ、それを増やしていく仕組みとしてスタートしたのが「giv」である。givは、人が「価値を贈って感謝でつながる豊かな社会」をコンセプトに「恩送り」ができるプラットフォームである。givでは、自分の好きなことや得意なことを誰かに贈り、受け取った人が今度はまた違う別の誰かに、自分の好きなことや得意なことをベースに贈り繋げていく。これによって二者間で閉ざされて完結するのではなく、理論的には永久に感謝のバトンリレーが続いていくことになる。
受け取った人が、贈った人に対してサンクスカードを記入し、写真と合わせてアプリに投稿する仕組みとなっており、すべてのギブはアプリ内で見える化されている。
givで行われる価値はお金では買えない。すべてが無償で提供されるからこそ、お金で購入したくても購入できない。それによって、主観的価値が生まれる仕組みである。
主観的価値が生まれるためには、そこに人が必要である。人と人が役割や肩書きではなく、1人の生身の人間として接することになる。双方のコミュニケーションを通じて、贈り手がどんな想いでそれに携わっているのかを受け手は感じることができる。贈る人にも、なぜこの人が受け取ってくれるのか、それをどのように活かしてくれるのかが伝わる。そこに2人だけのストーリーが生まれる。目には見えない2人の想いや経験そのものが主観的価値なのである。
この仕組みの本質は、モノやサービスの物々交換の裏側にある人の想いから生まれる2人のストーリー、そして感謝で繋がる関係性にある。それこそがgivの根幹にある主観的価値である。
自分の好きなこと得意なことで感謝される
無償で何かを提供する場合、自分が持つ限りある資産や時間を減らして行うものと考えがちだが、これは自分をすり減らすことになる。自分をすり減らすことのない形でギブを行うには、自己表現や自己実現としてのギブの機会にできるかどうかだ。すり減らすのではなく楽しむ。
贈る行為を通して、自分の可能性が広がる。自分に新しい気づきがもたらされる。自分が様々な制約や枠から解放され、思う存分に自分を表現する機会。そのような環境であれば、提供する贈り手側がその機会に感謝することができる。
そのためには好きや得意なことを通してギブすることだ。自分が好きなことや興味関心が強い者には、たくさんの時間をかけることができるし、それを得られるための努力も惜しまない。自分が得意とすることを人に贈ることで、相手から「助かった、ありがとう」が返ってくる。この役に立ったという感覚が、社会における自分の存在意義や、やっていることに対してのやりがいを感じる機会となる。すなわち自己肯定感を向上させることにつながる。