戦後、溶接工からキャリアをスタート
戦後、朝鮮戦争が日本経済を一気に押し上げる要因となった。朝鮮特需によって、国内の造船業も息を吹き返した。日本鋼管の鶴見造船所も、この流れに乗って順調に業績を伸ばし、高い収入が保証される好業績企業として人気を集めた。ただ一方で当時の過酷な造船業界の労働環境から、給料が高い反面、危険を伴うきつい労働として知られた。
高校卒業後、近所にあったことと、家が裕福でなかったため、早く稼ぐため、日本鋼管に入社。溶接部門に配属された。大型船舶の製造現場では、様々な溶接技術が要求され、溶接工としての腕が上がっていった。そこで、下請け会社から来る溶接工の指導に当たるようになった。
職人を集めてマネジメントする仕事へ
日本鋼管に入社して5年目、結核を患い長期休養。元々、チャンスがあれば自分で何かやろうと考えていたため、フリーの職人として、あちこちの溶接所で働くようになった。そこで多くの職人たちと知り合うことになった。それから3年が経ち、神戸製鋼所の高炉建設に腕利きの溶接工を60人集めるという依頼がきた。そして、職人たちの横のつながりで、約4〜5ヶ月ほどかけて60人を確保した。60人の職人を引き連れて、現地に「のっこむ(職人が大勢で現場に入ること)」ことになった。完成まで丸2年を要する大プロジェクトだった。プロジェクトが終了する頃には、職人仕事は辞めて、現場のマネジメントに専念していた。
神戸のプロジェクトがスタートして1年ほど経った頃、今度は大阪ガスの尼崎工場で球形タンクを2基つくる話が来て、さらに旭化成の延岡工場からも球形タンクをつくる話が来た。こうして構内請負の仕事が増えていった。大型案件が終了に近づくと、職人たちは他の現場へと移ろうとするが、それを引き留めて次の仕事に繋げようと必死になって奔走した。
その後、増えていったのは建設機械、産業機械などのメーカーからの依頼。これら製造ラインでは、難しい溶接が必要とされる工程が多く、自前で職人を確保できないメーカーから依頼が来るようになった。これまで建設関係の仕事が中心で、大半が屋外作業で天気に左右されることが多かったが、工場内での作業に請け負う仕事が変わっていくことで安定して仕事を請けられるようになった。仕事の中身も溶接から多種多様な仕事が舞い込むようになった。必要とされたのは溶接工のような熟練した職人ではなく、一般工となり、従来よりも大人数を配置するケースが多くなった。
そうなると、人集めも、これまでのように人づてや紹介ではとても追いつかず、当時は求人専門誌もなかったため、一計を案じることになった。鶴見や川崎など地元の酒場、それも地方から働きに出てくる出稼ぎ労働者がやってきそうな飲み屋に1人で出かけて、それらしい集団を物色し、声をかけた。1人でも勧誘できると、その人が属しているグループのメンバーを次々と芋づる式に引き抜けることもある。また、同じ現場で働いている別のグループから集団で来ている人たちを紹介してくれることもあった。そこから、秋田、青森、福島、北海道とまわり、漁業、農業関係者をまわって人を集めた。
1971年、個人事業として営んでいた「清水工作所」を法人化し、日総工営を設立。田中角栄の「列島改造」ブームの流れに乗って、業績が拡大していった。しかし、1973年、第1次オイルショックの影響を受け、全ての仕事が契約解除となり、現場の労働者全員解雇することになった。その後、成長分野だったプラスチック関連工場や自動車関連から仕事を請けて再起を図った。