なぜ、ユダヤ人は知的生産力に優れているか
日本人とユダヤ人を比較すると、前者は情緒的、現象的、具体的、細分的、部分的であり、後者は論理的、本質的、抽象的、全体的、統合的である。日本人は「目に見えるものに情緒的に動かされる人々」であり、ユダヤ人は「目に見えないものの本質を抽象的に追究する人々」である。だから、日本人からみるとユダヤ人は理屈っぽい。
しかし、金融、證券、ハリウッド業界はいうに及ばず、IT業界でも世界の名だたる企業の創立者は、その半分以上がユダヤ人である。
ユダヤ人の知的生産力が優れているのは、彼らが「議論をして考える民族」だからである。「なぜ?」「Why?」を徹底的に考えつくす民族だからである。
質問こそが、あらゆる思考の始まりとなる
ユダヤ教のエッセンス(最も重要な教義)は「質問」する事である。ユダヤ人は、理由など知らなくても生活には全く支障のない当り前の事についても、「なぜ?」と古来から議論してきた。「イスラエル」の語源は文句をいう人、口論する人、たてつく人という意味である。
思考を深く巡らさなくても、普段の生活には全く困らない事が多い、常識や当り前とされていること、社会の通例のようなものは、いちいち疑問を呈して突き詰めなくて考えなくても、物事が進んでいく。
しかし、これは思考停止の状態である。思考停止は組織の硬直化や停滞を招く事になる。思考停止を脱却する唯一の方法は、自分を取り巻くあらゆる事柄、特に社会的に対立する問題点を議論の対象にする事だ。
どんな些細な疑問でもいい。大切なのは、とにかく頭を働かせる事である。普段は何の疑問も持たずにやり過ごしている事にも意識を向け、「なぜか?」と考えてみる事で思考力は鍛えられていく。
論点を見つけ出すために問いかける
思考がどのような方向に広がり発展していくかは論点次第といえる。「なぜそうなのか」「そうである理由は何なのか」「本当にそうである必要があるか」、こうした疑問や問題意識が存在してはじめて、考える事ができる。これらの問いがすなわち論点となる。論点は、物事について議論し、深く思考するために不可欠なものである。
ユダヤ人は、論点を見つけ出すのがうまい。また、話す時も主旨や大事なポイントが明確である。本題に入るための導入や雑談、まわりくどい表現は一切ない。
ユダヤ人のヘブライ聖書の読み方で特筆すべきなのは、小説を読むようにサラサラと流すのではなく、様々な角度からの疑問を投げかけながら、一言一句に時間をかけて読み進めていく事である。一文に1つ、もしくは複数の論点を設定し、それについて議論する事で聖書のメッセージを深く理解しようという狙いがある。
目の前にあるものをそのまま受け入れるのではなく、一言一句に批判の目を向ける。そうする事で,考えるべき論点は何かがつかめるはずである。
複数の論点から本質に近づくことができる
つかんだ論点が的外れだったり、重要度が低い場合、どれだけ議論しても思考は深まらないし、有益で効果的な解決策も見つからないだろう。的外れな議論は物事の本質から目をそらし、思考停止の状態を生み出しかねない。
論点はできるだけ的を外さず、重要度の高いものであるべきである。1つの側面からだけでなく、別の角度から物事を捉え、複数の視点で考える事は、論点思考には不可欠な発想法である。複数の論点から議論してはじめて、物事の本質に近づく事ができる。