人は他者を単純だと考えてしまう
「相手が自分を知るよりも、自分の方が相手のことをより詳しく知っている」「自分にはより優れた洞察力があり、相手の本質を見抜くことができる」という確信によって私たちは、もっと相手の話を聞くべき時に自分から話をしようとする。
さらに、「自分は誤解されている」「不当に判断されている」という確信について他者が話す時、私たちはなかなか忍耐強く対応することができない。
私たちは皆、薄っぺらな手がかりに基づいて他者の心を見抜くことができると考え、機会があるたびに他者について判断を下そうとする。当然ながら、自分自身に対してそのような態度を取ろうとはしない。自分たちは繊細で複雑で謎だらけだが、他者は単純だと考えてしまう。
その結果、私たちは見知らぬ相手の嘘を見抜けなかったり、相手の意図を見極められずに苦労する。
人は相手をデフォルトで信用する
裁判官であれ、CIA職員であれ、嘘を見抜くのが得意な人などほとんどいない。人間には「デフォルトで信用する」という傾向がある。私たちは基本的に眼の前の相手が正直であるという前提のもとに行動している。この状態を抜け出すためには、当初の仮定とは反対のケースが決定的になる必要がある。
つまり、私たち人間はまず信じることから始める。そして、説明がつかなくなるほど疑いや不安が高まるとやっと、私たちは信じることをやめる。
私たちは、相手に対して全く疑いがないから信じるのではない。信じるということは、疑いの欠如を意味するものではない。相手に対して充分な疑いがないから、誰かを信じるのだ。疑いは、説明して取り除けない時にだけトリガーとなって不信に変わる。このトリガーを作動させるためのハードルは高い。人間に備わった嘘発見器は、私たちが望むようには機能しないし、そもそも機能するはずがない。現実世界では、疑いを打ち消すために必要な量の証拠を積み上げるためには時間がかかる。
進化の過程の中で人間は、眼の前で起きる欺き行為を嘘だと見破る巧妙かつ正確なスキルを磨き上げなかった。なぜなら、周りの人々の言動を事細かに精査するためにわざわざ時間を費やす事に利点などないからだ。人間にとっての利点は、見知らぬ他人が真実を語っていると仮定することから生まれる。デフォルトでの信用と騙されるリスクの間の相殺取引が人間にとって非常に大切になる。効率的なコミュニケーションは人間の生存に大いに影響を与える。私たちはたまに騙されるものの、それは取引に伴う小さなコストにすぎず、利益の方がはるかに大きい。
見知らぬ相手を理解することには限界がある
透明性とは、相手の行動や態度(人々が外側に向かって自分を表現する方法)が、内側の感情を示す確かな手がかりを与えてくれるという考え方だ。これは、見知らぬ人のことを理解する時に私たちが使う重要なツールである。相手を知らない時、相手とうまくコミュニケーションが取れない時、相手についてきちんと把握するための時間がない時、私たちは相手の行動と態度を通して彼らを理解できると考える。私たちは往往にして、相手の態度を通して誠実さを見極めようとする。
しかし、透明性のルールはすべて正常に機能することはない。驚いた人が、必ずしも驚いたように見えるとは限らない。精神的な問題を抱えた人が、常に精神的な問題を抱えているように見えるわけではない。嘘つきは眼をそらしたりしない。見知らぬ他人の見かけや行動が感情を読み解くための信頼できる手がかりだと過信すると、間違いを犯すことになる。
私たちみんなが嘘つき/正直者だと見破ることができるのは、それらの思い込みに見合った人々だ。つまり、誠実さのレベルが言動と偶然にも一致する人だ。嘘つきが正直者のように振る舞う時、あるいは正直者が嘘つきのように振る舞う時、私たちは混乱する。人間は、相手がイメージと一致しない時、嘘を見抜くのが下手になる。
見知らぬ他人を理解するための探求には限界がある、と私たちは受け入れなくてはならない。すべての真実を知ることなどできるはずがない。見知らぬ相手と話をするためには、慎重さと謙虚さを持つことが何より大切になる。