のんびりなんて生きられない ベルト一筋70年、生涯現役オヤジの冒険人生

発刊
2018年5月17日
ページ数
234ページ
読了目安
238分
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貧しい戦後を生き抜いてきた創業物語
戦後、ベルト工場に丁稚奉公したところから70年。ベルト製造販売「丸正」創業者が、これまでの事業と人生の紆余曲折を語った一冊。

ドジョウ獲りでビジネスを学ぶ

昭和10年、茨城県笠間市に5男坊とした誕生。実家は小作農を生業とした貧しい家だった。毎日の暮らしが大変で、生きるだけで精一杯だった。戦後、中学3年生になり、少しでもお金を稼いで、経済的に自立しようと思った。

色々試し失敗を繰り返す中で、ドジョウの商売を思いついた。ドジョウは労働力さえあれば、身近な場所で捕まえられてすぐ買い手がついた。当時はスーパーで肉や魚が豊富に手に入る時代ではないため、ドジョウは貴重なタンパク源だった。大量に捕獲したドジョウを田んぼに放して売るまでキープし、手桶に入れて家々を回ると次々に声がかかる。この時、人から喜んでもらってお金をもらうという商売の基本がわかった。

ベルト工場に丁稚奉公

15歳の時、家を出て自分の足で歩いて行こうと決心していた。地元でウロチョロしていても兄に迷惑がかかると思い、東京に出ると決めた。学校から浅草にあるベルト工場を紹介された。働き始めたのは根本工業という、工員を20名ほど抱える中規模の町工場。主に男性用のビジネスベルトを生産していた。浅草には地場産業として、皮産業や靴産業、繊維関係などのアパレル業があったが、当時は貧困の代表のような業界だった。

そのアパレル業の中でも、ベルトはマイナーで、周辺雑貨の一部でしかなかった。今もベルトは、その生産の90%がメンズで、レディースは10%ほどだ。同じメンズ主体のアイテムでも、やはりネクタイ市場は大きい。アパレル全体から見て、ベルトの取り扱いは小さい。戦後5、6年の当時では、ベルトは認知度が低く、限られたお洒落な人のみが身につけているといった感じだった。軍隊などでは刀などの武器を装備するために、ベルトをする習慣はあったが、まだ一般的には広がっていなかった。

ベルトの製造工程は、原料の皮からベルト1本分を皮包丁で切り出し、裏を薄く漉いて裏材を貼り付け、塗料を塗って磨きをかけてから縫製、穴あけをするという流れ。力のいる手作業や汚れ仕事が多いため、男性の工員が多かった。先輩の動きを観察して、全ての作業を見様見真似で覚えた。夜なべするのは当たり前で、夕食後の3時間をどうやって働くか、そこからが本当の自分の仕事という風に皆とらえていた。工場の自転車置き場の上にバラック建ての寮があり、12畳の「タコ部屋」に10人以上が雑魚寝していた。

奉公先の初任給は300円。散髪代が120円の時代だったから、散髪して身の回りのものを買ったら、手元に残るお金はほとんどなかった。ボーナスはなく、1年目に下着が支給され、5年目にはオーバーをもらった。空腹を満たすために、コッペパンを買って食べることが唯一の楽しみだった。当時、餡子なしが15円で、餡子ありが16円だった。

マルショー設立

5年間修行して御礼奉公も終わり、20歳の時に独立し、マルショー商店を創業した。日本堤にある違法建築の木造3階建の屋根裏の6畳一間を間借する。1年経つ内に徐々に受注が増えてきたため、機械を購入し、従業員も5人雇った。世間一般では、仕事がなくて大変な時代だったが、商売を拡大しようと必死だった。

ある時、取引先の倉庫の掃除をしていたら、廃棄物置場にワニ革などの端切れを見つけた。これをパッチワークのように接ぎ合わせて1本のベルトにした。このベルトは安価で洒落ていると大ヒットした。少しずつ成功事例を積み上げながら、加工業の下請けから、製品の企画・製造販売をするメーカーとして本格的に事業をするようになっていった。