社会が直面する問題を避けるシリコンバレー
欧米などの国家は、科学と技術の可能性に対して野心も関心も失い、医療、宇宙旅行から軍用ソフトウェアにいたる様々な分野で政府主導のイノベーションが衰退し、非自由主義世界との間にイノベーション格差が生じている。原子爆弾やインターネットを生み出したような大規模なブレークスルーの探究から政府は手を引き、革新的な技術の開発を民間部門に委ねた。
だがシリコンバレーは内向きになり、国民の安全や福祉に関わるような大規模なプロジェクトに背を向け、ごく限られた分野の消費者製品の開発にエネルギーを注ぎ込んだ。テック企業の多くは、社会をより良くし、人類の文明を一歩ずつでも高みに押し上げる努力を放棄した。シリコンバレーに浸透している思想はテクノユートピア主義であって、人類の問題はすべてテクノロジーで解決できるというものだ。こうした考え方が狭量で薄っぺらな功利主義的アプローチを生んだ。
シリコンバレーの大方の経営者たちは、市場の知恵に従うことで満足し、市場原理や市場の価値観を自分の信条や価値観に優先させている。彼らは自らの冒険心を追求することはしても、群衆に軽蔑されたり嫌われたりするリスクはとろうとしない。こうした姿勢が、世界はどうあるべきか、企業はどうあるべきか、といったことについて真剣に議論する機会を奪う結果となっている。
アイデンティティなき国家
民衆や宗教に基づく底の浅いアイデンティティ以上のもので構成員が結びついているような国家を建設するという大事業に関して、人類の歴史上、アメリカ以上の成果を挙げた国は他にない。しかし、建国から2世紀半近く経っても、アメリカを定義するものは、今なお抱える多くの矛盾である。
アメリカに住むということは、共通に分かり合えるものを何か持つことが考えられないほど、人によってあまりに違う経験になっている。その結果、アメリカ文化の歴史は外部から書かれているのが現状だ。
人間はつながろうとする生き物だ。このプロセスにおいて、国を介した共通の文化やアイデンティティ、帰属意識の役割を認めるべきだろうか。認めないなら、空洞化した文化の空隙を埋めるのは消費文化である。つまり、富と地位によって決まる文化だ。これを許したことは、今日の左派の明らかな失敗である。彼らは国民文化や共通のアイデンティティがもたらす価値を真剣に考える意思を持たず、結局は抑制するはずだった市場の行き過ぎを助長する結果に終わっている。
今日の左派は、ナショナル・アイデンティティについて語らないという決定的な過ちを犯した。ナショナル・アイデンティティとは、血や出自にこだわる民族意識とは訣別したアイデンティティを意味する。ヨーロッパでもアメリカでも、左派はそれについて率直に語る機会を支持者にも与えなかった。自らを中立化するためである。
科学技術立国の再建
真実や美や善について、さらには正義について意見表明することに対して、現代社会は及び腰だ。その結果、社会としてのアイデンティティは薄れ、人々の実体験に意味のある基準を提供することができなくなった。いまや全ての文化は対等とされ、批評も価値判断もしてはいけないことになっている。
現在のシリコンバレーも同じ知的伝統の延長線上にあり、善悪についての判断を徹底的に避ける相対主義には至らないにしても、文化的・道徳的不可知論を是としている。若い創業者たちは「世界を変えたい」と連呼するが、意味のある世界観を確立することから逃れるために理想主義のマントをまとっているに過ぎない。共通の目的の追求に最も効果的な組織は、これまでに存在した中では国民国家である。だが国民国家は進歩の邪魔だとして投げ捨てられた。
アメリカが攻撃や侵入に対して脆弱になったのは、共通の努力や共有体験を毛嫌いしたからである。かつては学校教育における市民参加行事、兵役、宗教、共通の言語、活発で自由な報道といったものが絆を作り出していた。いまやそのほとんどが打ち切られるか、参加の減少や批判が原因で縮小されている。
シリコンバレーは、アメリカ人の文化的経験にぽっかりと空いたこの空白のチャンスを逃さなかった。人々の生活を支配するようになったテック企業の多くは、若者が渇望する理想を体現する小さな国のようなものだ。その理想とは、創造の自由であり、成功を自分のものにすることであり、結果にコミットすることである。こうした企業都市は社会からある意味で隔絶され、国家事業にはもう提供できないものを世に送り出す。
今後進むべき道は、自由市場を支持することと、ある種の経験の共有や共同作業を常に渇望する人間の本性とをうまく調和させることだ。テクノロジカル・リパブリックの再建には、共通経験、目的やアイデンティティの共有、人々の心を1つに結びつける市民的儀式といったものが欠かせない。