屋台ラーメン・屋台おでんの生まれ変わり
さいたま市大宮区に本拠を置くハイデイ日高は、関東1都6県に熱烈中華食堂「日高屋」などを直営で472店舗展開している。「日高屋」の強みは、駅前一等地で大衆中華料理と居酒屋の要素を取り入れた「ちょい飲み」にある。売上高に占めるアルコール比率は15〜17%、同業他社の3〜5倍もある。
創業者兼会長の神田正の最大の功績と言えるのが、大宮の「ラーメン館」で1杯480円で売っていたラーメンを、2002年、中華そば「日高屋」1号店の新宿東口店で390円で売ったことだ。神田は全役員の反対を押し切り決断した。「生ビール1杯、餃子1皿、ラーメン1杯で1000円でお釣りがくる」という大ヒット施策を打ち出した。
そして、ラーメン専門店ではなく「大衆中華」の店に舵を切る決断をした。ラーメン専門店は個人でも参入しやすく、競争が激しくなるからだ。メニューが多く調理が大変な町中華が後継者難となり、人手不足で消えていっているが、そこに商機があると決めたのだ。
一昔前、屋台は「1人客中心」で「ビール・酒+おでん+ラーメン」という注文が多かった。神田が開発した「日高屋」は、まさに屋台ラーメン・屋台おでんの生まれ変わりである。セット売りは、サラリーマン、現場職、夜職、タクシー運転手などの人たちの人気を得たが、それは1杯390円のラーメンを導入したことが起爆剤となったからだった。
神田の商売の原点
神田が「日高屋」を日本を代表する中華食堂チェーン店に拡大・発展させられたのは、「村一番の貧乏家」に生まれ、「村一番の働き者の母」に育てられたことが、全ての出発点だった。1953年、中学1年生12歳の時、神田は母の半ば強制的な家計支援要請によって、母と同じ霞ヶ関カンツリー倶楽部で土日にキャディのアルバイトを始めた。神田の商売の原点は、このアルバイト時代に、米軍人にロストボールを売った経験や、チップをもらった経験にある。
神田は中学を卒業して社会人になってから、電気屋、箪笥の金具を作る製作所、浄水場の塀作り、土建屋、建設会社、運送会社、セメント工場、林業、ペンキ屋など15ヵ所以上職場を変えた。与えられた仕事は単純作業が多く、すぐに慣れてしまい、飽きてしまうのが常だった。
60年代には歌声喫茶のウエイターなど水商売を転々とした。20歳頃からは、ゴルフ場のスタート係やレッスンプロで飯を食った後、パチプロをやっていた。家族からは「フーテンの寅さん」と呼ばれ、自分でも「天下の風来坊」を自認していた。
そんな神田に中学校時代の友人が「ラーメン屋のオヤジが出前を募集しているので、手に職をつけて、ラーメン屋で独立したらどうか」と声をかけてきた。神田がラーメン屋で一番びっくりしたのが、現金商売であることだった。朝仕入れた食材はその日、出前や店売りで、夜には現金化されるのに仕入れは全部ツケで支払は1ヶ月先。キャッシュフローが非常にいい商売で、ラーメン屋は儲かると確信した。神田は浦和の小さな町中華に1年ほど在籍し、色々なことを覚えた。
日高屋の原点「来来軒」
27歳の時、岩槻名店街にラーメン屋を出すので店長をやって欲しいと頼まれた。テナントとして入った岩槻名店街2階の店は8坪前後のカウンターで15席前後のこじんまりとした店だった。店名は「来来軒」とした。しかし、岩槻名店街は大宮の繁華街などと比べると人の流れがほとんどなく、暇な日が続いた。そして8ヶ月ほどで倒産した。
1969年、28歳の時に倒産した「来来軒」の後始末をしていると、大家が店を訪ねてきて、保証人になって100万円借りてあげるので、店を引き継がないかと言われた。このオーナー経営者として、再建の第一歩を踏み出したことが、人生の最大の転機となった。出前と深夜営業に力を入れれば、絶対に繁盛店にできると思った。
当時、岩槻名店街で出前をやったり、深夜営業をやるような熱心な店は1軒もなかった。まだコンビニは普及していなかったし、深夜営業の競争相手と言えば、駅前の屋台ラーメンくらいだった。深夜のお客様は、居酒屋のようにビールや酒、つまみになる炒め物や餃子などを注文し、最後にラーメンで腹を締めて帰る。深夜に営業すると、こんなに儲かるのかと、びっくりした。
1年365日無休、1日約20時間労働で死に物狂いで働いた。神田は岩槻名店街で約3年間頑張ったが、再建を頼まれた2店舗目のスナック経営に失敗し連鎖倒産した。
1973年、32歳の時、神田は2店舗の営業資産を売却し手元に残った40万円で、5坪の格安居抜き物件を借りて、中華料理「来来軒」1号店の大宮北銀座店を創業した。これが現在の熱烈中華食堂「日高屋」の原点である。北銀座通りは、深夜でも人通りが多く、よく客が入った。周りにラーメン屋はなかったし、深夜営業するラーメン屋も1軒もなかった。