生命体は多様な複合体である
通常、私たちは「わたし」とは過去から現在まで連続した記憶を持ち、1つの意思で行動を決定している、ひとつながりのものというイメージを持っている。しかし、私たちの肉体に宿る「意識」や「心」は、記憶、思考、感情や知覚、そしてそこから生じる行動に至るまで、時に解離、分断されうる。
「わたし」の中には、実は多くの生命体が複合体として存在している。それは遺伝子という意味でも、細胞内小器官という意味でも、また生物種の共生体という意味でもそうである。どこに区切りがあって、どこからが「わたし」で、どこからが「あなた」なのか、その境界さえ判然としないものも少なくない。生命は合体し、新たな形の生命を生んでいく。その合体は、時に物理的な「わたし」だけでなく、「意識」や「心」としての「わたし」にさえ影響を及ぼしている。
「意思」とは本当に自分のものか
現在の脳神経科学によるヒトの「意思決定」機構には、自己帰属感の形成というステップが想定されている。つまり行為にいたる過程と、その行為を自分の意思で行なったものだという意識を形成する過程が、別になっている場合があるということだ。近年の脳科学の知見からも、ドーパミンの投与や皮質電気刺激などにより、行為の自己帰属感が変化することが明らかになっており、行為を自己の意思で行なったという「感覚」が、脳の機能により形成されてくるという知見が蓄積されつつある。
つまり、意思が行為を生み出すのではなく、行為を自己に帰属させる後付けの物語として「意思」が創られている可能性があり、さらにその「意思」には「他者」の関与があるかもしれないのだ。
「わたし」とは何か
ヒトという生物にとっての私とは、私という固有の人格を持つ個体のことである。あなたと私は、違うゲノム配列を持ち、別個の物理的存在として空間を占め、異なった自我を持っている。その違いは明確であり、私は何の疑いもなく私である。
しかし、ヒトにおいて私という個体を特徴づけている、固有のゲノム、物理的な独立性、そして1つの中枢神経系による統合といった要素は、どれくらい確固たるもので、生物全体で普遍的なものなのか。ヒトのような高等動物では生命の単位は個体である。しかし、この個体という概念は、より広く生物界を見れば、実はさほど確固たるものではない。
生物の自己複製は例外なく何かの外部環境に依存している。つまり自己複製に必要な要件のどこまでを自己として、どこからを外部とするのかによって、自己と他者、あるいは自己と環境の境界が変化してしまう。例えば、ヒトであれば、複製単位として存在する染色体DNAで規定されるものを「自己」とした場合、この「自己」が複製するためには、エネルギーが必要で、それを主に作り出しているのはミトコンドリアである。このミトコンドリアは元を正せば細胞外にいた好気性の細菌であり、染色体とは独立した固有のDNAを持ち、その複製も染色体と完全に同調しているわけではない。このミトコンドリアは、私たちの「自己」を拡大してその一部とするべきなのか。
どんな生き物も、より大きな全体の中でしか自己複製できないというのは、生物界の真理であり、その要件のどこまでを「自己」すなわち「個体」とするのが妥当なのか。また、染色体DNAの情報を最小単位の「自己」としても、その中には膨大なウイルスやその関連因子の配列が含まれている。そういった因子の少なくとも一部は、かつて外部からやってきたものである。
生命は、多様な形で、また様々なレベルで合体しており、考え方次第で、「自己」と「他者」の境界がどこにあるのか、わからなくなってしまう。
他から独立した「わたし」は存在しない
「脳情報」が他に類を見ないほど発達したヒトにおいては、この「脳情報」による「個体」が肥大しており、ヒトの単位も実質的にはこの「個体」で定義されている。この「個体」の意識が、他の生物の単位に対しても個体を求めてしまうことにつながっているのではないか。
しかし、この世界に存在する様々な生物の大部分には、そのような「個体」が実際には存在していない可能性が高い。ヒトにとっては「個体」が大切だが、多くの生物種にとって、個体の価値はさほど高くない。種にとっては、1つの個体が生きようが死のうが大きな問題ではなく、その中からより安定して生き残るような性質を持ったものが出てくることが唯一大事である。
ゲノムを見れば、ウイルス・転移因子は言うに及ばす、水平移行で外部から入ってきた遺伝子があちこちに存在し、時には別の生物のゲノムがまるまる混じっていて、るつぼのようである。どんな手段であろうと、なんとか自己複製できる環境を見つけ出したものが生き残ってきた。だから、形而下には、どこにも混じり気のない純粋な「わたし」など、そもそも存在しないのである。