知性は個体ではなく、集団に宿る
認知科学の影の部分に目を向けると、人間の能力がおよそ考えられているようなものではなく、どこまでやれるか、何ができるかは大抵の人にとって極めて限られていることを示す研究結果が溢れている。個人が処理できる情報量には重大な制約がある。そして、個人の知識は驚くほど浅く、この真に複雑な世界の表面をかすったぐらいであるにもかかわらず、大抵は自分がどれほどわかっていないかを認識していない。
人間の知性は、大量の情報を保持するように設計されたコンピュータとは違う。知性は、新たな状況下での意思決定に最も役立つ情報だけを抽出するように進化した、柔軟な問題解決装置である。その結果、私たちは頭の中に、世界についての詳細な情報をわずかしか保持しない。知性は個体の脳の中ではなく、集団的頭脳の中に宿っている。個人は生きていくために、自らの知識だけでなく、他の場所、例えば自らの身体、環境、他の人々の知識を頼る。そうした知識をすべて足し合わせると、人間の思考は感嘆すべきものになる。
知識の錯覚
一見単純そうに思えるものを含めて、物事の多くは複雑である。人間は自分が思っているより無知である。私たちは、実際にはわずかな理解しか持ち合わせていないのに物事の仕組みを理解しているという錯覚を抱く。
すべてを理解することは不可能である。私たちは曖昧できちんと整理されていない抽象的知識に頼っている。実際、ほとんどの知識は連想、つまりモノや人との間の高次なつながりの寄せ集めに過ぎず、詳細なストーリーとしてわかりやすく説明できるものではない。
知性は物事の要点だけを捉え、詳細情報を忘れる
思考は、有効な行動をとる能力の延長として進化した。目的を達成するために必要なことを、より的確にできるようになるために進化した。思考することで、それぞれの行動の効果を予測したり、過去に別の行動をとっていたら状況はどのように変わっていたかを想像したりすることができ、その結果様々な選択肢の中から有効なものを選べるようになる。
最適な行動を選ぶ上で因果関係が重要であるにもかかわらず、なぜ世界の仕組みについて個人の詳細な知識はこれほど限られているのか。それは、思考プロセスは必要な情報だけを抽出し、それ以外をすべて除去するのに長けているからである。私たちの認識システムはその要点や本質的な意味だけを抽出しにかかり、それ以外はすべて忘れる。私たちの知性は、新たなモノや状況に対応できるように、経験から学び、一般化するようにできている。新たな状況で行動するためには、個別具体的な詳細情報ではなく、世界がどのような仕組みで動くのか、そのおおもとにある規則性だけを理解しておけばいい。