怠け者は本当に怠けているのか
「怠惰」という言葉は、大体いつも道徳的な非難の意味合いで使われる。誰かを「怠け者」呼ばわりする場合、それは単なるエネルギー不足ではなく、「その人自身に大きな問題や欠陥があるのだから、何が起ころうと個人の責任だ」というニュアンスを伴う。
しかし、世間から「本人の努力が足りない」と蔑まれている人は、ほとんどの場合、他者からは見えない障壁や困難と懸命に闘っている。実際は多大な困難とストレスを抱えて、必死に頑張っている。それでも、要求が本人のキャパシティを超えているため、事情を知らない他人からは「何もしていない」ように見える。問題を抱えすぎて困っている人が怠惰に見える理由の1つは、人の苦しみは大抵外部からは見えないことだ。
こうした偏見や非難は他人に向けられるだけではない。私たちは自分のことも理不尽に責めている。自分に対して、途方もなく高い要求をしがちなのである。私たちは皆、怠惰について誤った信念を植え付けられてきた。現代の文化では、強い意志や根性さえあれば誰でも成功できるとされ、限界まで自分を追い込むのが美徳で、気楽にやるより価値が高いとされている。
どんな場合も自分の限界を持ち出すのは怠惰さの証拠で、そんな人には愛情や慰めは不要だと教えられてきた。これが「怠惰のウソ」である。「怠惰のウソ」は社会に満ちていて、そのせいで私たちは自他に厳しくなり、ストレスを抱え、無理をして、それでもまだ努力が足りないと考える。
「怠惰のウソ」とは
「怠惰のウソ」とは、「あくせく働くことは、のんびりするより道徳的に優れている」「生産性の高い人は生産性が低い人より価値がある」という考え方のことだ。表立っては語られないが、この価値観は世の中の常識になっている。私たちの働き方、人間関係での境界線の引き方、望ましい人生や生活についての考え方などには、この「怠惰のウソ」が影響している。
「怠惰のウソ」には、次の3原則がある。
- 人の価値は生産性で測られる。
- 自分の限界を疑え。
- もっとできることはあるはずだ。
この世界では、「努力は報われる」とされ、限界や欲求を口にするのは恥ずべきことだとされている。だから、依頼を断ったら相手や周囲からどう思われるだろうかと恐れて、無理にでも仕事を引き受けてしまう。たとえ、「怠惰のウソ」の3つの原則すべてに納得していなくても、これらの考え方は私たちの中に深く染み付いており、目標設定の方法や他者への視点にその影響が出ているはずだ。
自分の価値を考え直す
生産性や他人からの称賛よりも、人生にはもっと大事なことがあるはずだ。執拗に目標を追いかけ、どこまでも社会的承認を得ようとしたところで、決して満足感を得られない。それどころか、人生の喜びを満喫するエネルギーが摩耗してしまう。むしろ、一歩引いて自分の価値を再考し、何を成し遂げたいかに関わらず、自分の人生にはそれ自体で価値があると考えた方がいい。
こうした考え方を変える方法には、次の3つが挙げられる。
①味わい方を学ぶ
人生を豊かにする要素の研究では、喜びや意味を見出すことはすべて「味わう」ことに行き着く。「味わう」とはポジティブな経験をその瞬間に存分に楽しむプロセスのことだ。「味わう」時、人は好きなもので心を満たされ、その体験に全神経を集中させて没頭している。自分にとって心地よいものなら何でもいい。「やることリスト」の1項目をこなすのではなく、ただゆっくりと、感謝して、それに没頭するのだ。
「味わう」ためには4つの「心の習慣」がある。
- 態度で示す:幸せを態度で示す。
- 浸る:今この瞬間に起こっている体験に集中する。
- 人と分かち合う:ポジティブな経験を他の人と共有する。
- ポジティブな「心のタイムトラベル」をする:幸せな記憶を反芻したり、先の楽しいイベントを計画してワクワクする。
②畏敬の念を抱く
達成への執着心を手放すには、意識して「畏敬の念」を抱く時間を作るのも良い。畏敬の念を抱く時、私たちは、圧倒的な美の前でものの見方が変わり、個人的な問題や心配はどうでもよくなる。
畏敬の念に打たれるために重要なのは、新しさと驚きだ。新しい状況に身を置いたり、斬新で興味深い刺激に触れたりするといい。
③あえて苦手なことに挑戦する
上手にできないことをやってみるのは「怠惰のウソ」から抜け出すには良い方法だ。失敗を受け入れられるようになれば、何ができるかできないかに関係なく、自分の人生に意味があると気づける。苦手なことを継続するには、最終的な成果物よりも、そこまでのプロセスを楽しむ方法を身につけるしかなくなるからだ。
うまくいかず非生産的な活動で時間を「無駄」にすることを受け入れられるようになれば、世の中が敷いたレールに従ってチェックボックスに達成の印をつける生き方から離れて、自分なりの目標や優先順位が自由に選べるようになる。