蓋然的思考
個人の決断にせよ、社会全体に関わる決断にせよ、すべての決断は賭けである。正しい選択をしたという保証が得られることはめったにない。とは言え、保証という面で科学的な思考が役に立つ。科学者が利用するのは猜疑心だ。最終的にすべてが間違っていたということはないか、と自問する。そして、機械的なテクニックを批判的に使う。十分に成果をあげてきたルールを適用し、自らが用いる理論を検証するのだ。
現実について自分が知っていることを意識し始めると、2つのことが明らかになる。1つは自分には知らないことがたくさんあるということ。もう1つは未だに不確実なことがたくさんあるということだ。不確実なことを前にすると、人は不安になる。しかし、自分が何を知らないかを知ることや、自分の知っていることはほんの一部に過ぎないとの認識を持つことは、成功するために欠かせない。
科学の力を使えば、この現実との関わり方を大きく変えることができる。「絶対的に確信が持てることにしか働きかけてはいけない」という姿勢から「確信の度合いに差があるさまざまなことに働きかける方が、より多くの成功を手にできる」という姿勢に変わることができる。
自分が持つ知識はすべて事実であるとの思いに固執してはいけない。そうではなく、これについては強く信頼し、あれについては多少の疑いを残すというようにして、新たな事実が判明するたびに信頼の比重を変えるようにするといい。そうすれば、必要に応じて決断の内容を更新していくことができる。
これは科学の要領の1つで、理解が不確かな状態というをうまく切り抜ける柔軟性が思考にもたらされる。そのように考えることを「蓋然的思考」と呼ぶ。
科学者は白か黒かの考え方から脱して、どんな提案にも曖昧さを含ませる文化を築いた。その曖昧さは、科学にとって大いに強みとなる。その瞬間に抱いている意見に入れ込みすぎずにすむのだ。不確実であると認めることで、自分が間違っているかもしれない理由を求めて前を向けるようになるのだ。
蓋然的な姿勢は、人間による不完全な理解と、私たちが実際に共有する「そこにある現実」の関係を映し出すものだ。所詮、因果関係を立証するためのランダム化比較試験を行ったところで、所定の因果関係がこの世界を正確に記述するものである可能性を定量的に見積もった数字が明らかになるにすぎない。だが、そういう蓋然的知識をたくさん手にすれば、それらをつなげて現実の科学的な理解ができる。
科学的楽観主義
一般に、懸命に知恵を絞らなければ重要な問題は解決できない。ノイズの中に見つけた偽のパターンをシグナルだと無理やり思い込もうとしている自分に気づくことや、重要な測定値に偏りを生じさせる系統的不確かさの原因となりうるものをリストアップすることには、かなりの頭脳労働が必要だ。
1つの問題に取り組み続けるためのツールが「科学的楽観主義」である。科学的楽観主義は、基本的に「為せば成る」の精神を意味し、「抱えている問題は、自分や自分が属するチームの手で解決できる」と期待することを意味する。厄介な問題に直面しても、解決策は自分の手の中にあるという姿勢で取り組む方が、解決する可能性は高まる。
科学的楽観主義は、人を辛抱強くさせる。その辛抱強さを通じて、誰かが得て誰かが失うかを決めずにすむように、パイそのものを大きくするという新たな選択肢を提示すればいい。
理解の順序
科学的思考では、現実世界の問題に潜む多数の原因因子のことを、どれも等しく重要だとは考えない。その中のいくつかを検討すれば、何が起きているか、さらには何が起こりうるかの大筋を理解できるからだ。つまり、状況を変えるためのレバーを探すことになっても、その主な原因となる因子は一般に、数える程しかないということだ。そういう因子のことを「一次因子」と呼ぶ。
問題の肝となる一次因子を理解した上で、予測の精度を高めたいと思えば、残りの因子からその次に重要となる原因因子を特定し、それらがもたらす影響を評価すればいい。
一次、二次、三次と区別した原因因子を介して物事が理解されるようになったおかげで、科学は進化を遂げた。こうした理解の順序という優先度の判別は、私たちが下す決断の1つ1つの有効性を判別する上で重要な役割を果たす。
しかし、原因となる一次因子はどれで、それより重要度が下がる二次因子や三次因子はどれかを特定するのは、そう簡単にはいかない。この問題を解決するためのツールが「フェルミ推定」だ。フェルミ推定では、次の3つの有用なテクニックを活用する。
- 自分に数字の見当がつきそうな項目を見つける
- 概算を出す
- 具体的な数字を決められない時は、上限と下限を最初に設ける