生い立ち
物心ついた時には貧乏だった。川崎市内の6畳一間のアパートで育てられた。茨城県内で不動産ブローカー業を営んでいた父は50歳を過ぎて不動産業で失敗し、財産と自宅を失った。まともに働こうとしない父に代わって家族を支えていた母は、13歳の時に胃ガンで亡くなった。高校生になると、アルバイトで自分の小遣いを稼ぐようになったが、父は生活保護で得た金をパチンコに注ぎ込み、バイト代さえもあてにするようになっていた。当然のようにグレた。高校3年性になる頃には、地元の「チーム」で幹部を務めるまでになっていた。空手道場で汗を流す一方で、喧嘩に明け暮れるような生活だった。
アルバイト代を「もっとよこせ」という父に苛立ち、喧嘩になった時、父に包丁で刺された。そこで何かが変わった。高校3年生の夏休みを過ぎてから懸命に勉強し、神奈川県内の大学に補欠合格したが、不動産業への興味を深めていた。大学進学を諦め、宅建の資格をとり、投資用ワンルームマンションの販売会社に就職した。そこで夢中に働き、営業成績も3年目でトップに立ち、22歳で年収2000万円を稼ぎ、最年少の管理職に選ばれた。
起業
エスグラントコーポレーションを起業したのは2001年12月。9.11の事件をテレビの画面で見て、一度きりの人生、後悔だけはしたくない。はっきりと独立を考えるきっかけになった。
エスグラントは、ワンルームマンションの販売代理業務からスタートした。会社はスタートを切ったものの、お世話になった会社から多数の社員を引き抜いた事もあり、業界団体からの誹謗中傷、妨害が凄まじかった。創業当初は、いきなり倒産寸前まで追い込まれた。2002年の夏、どん底の資金繰りに奔走し、社員への給料さえ滞り始めた状況の中、社員を集めて提案した。「これからは本気で仕事をやって、絶対に会社を立ち直らせたいと思っている。ただ、この状態の会社に残ってくれとは言えない。でも、残ってくれる社員は、エスグラントにすべて捧げて欲しい」
辞めていく社員はほとんどいなかった。これ以降、社員が一丸となる事で業績はV字を描くように回復し、上場という夢に向かって伸びていく事ができた。2005年12月12日、業界最短の創業48ヶ月、最年少28歳で、エスグラントコーポレーションは、上場を果たした。
絶頂
上場し、状況は様変わりした。大手企業役員OBが監査役会に名を連ねるようになった。運転手が付き、秘書が付き、経済誌や業界紙の取材などでスケジュールが次々に埋まっていった。28歳で5億円のキャッシュと80億円近い株式資産、そして上場会社社長という社会的な地位も手に入れた。
上場を果たしてからも、投資用ワンルームマンションの開発と販売は好調で、付随する事業も次第に広がっていく。エスグラントの業績は右肩上がりで伸びていき、個人の年収も29歳にして3億円を超えた。
地獄
エスグラントの業績を一気に大きくしたのは、不動産ファンド事業だった。ファンドビジネスを始めた事で、最優先事項は「儲けること」になっていた。あらゆる手段で資金を調達して自己資本を増やし、さらにレバレッジを効かせて500億円、1000億円の物件を買っていく計画だった。
明らかに風向きが変わったのは、2007年9月だった。サブプライム問題の影響で、銀行の融資が止まり、物件の新陳代謝が止まった。経営を立て直すには、とにかく手持ちの物件を売却して資金を回すしかない。しかし、不動産価格の値崩れが始まっていて、大きな損が出る。エスグラントの経営はみるみる内にどん底へと転がり落ちた。社長室には催促や返済のリスケジュールの打合せに債権者が押し寄せるようになった。エスグラントにとどめを刺したのは銀行だった。家賃のお金を振込んだ途端に、銀行の口座が凍結されたのである。
2009年3月12日、エスグラントコーポレーションは、東京地方裁判所に民事再生を申請した。負債総額191億円。個人としても、上場を果たした事で得た100億円近い個人資産をすべて失い、逆に13億円ほどの借金を抱えるところまで追い込まれた。
大学進学を諦めて不動産業の道に飛び込み、懸命に働き続けた。業界最短、史上最年少での上場を果たして賞賛された。会社の売上は370億円を超え、さらに上を目指した走った。しかし、上場3期目にして23億8000万円の最高益を出す決算を終えた直後、リーマン・ショックを引き金にした不動産の暴落に飲み込まれた挙句、破綻への坂道を転げ落ちた。