人との違いよりも同じところを探せ
戦後、日本人は「自分」を重要視する傾向が強くなった。これは欧米からの影響によるところが大きいだろう。その結果、個々人の「個性」「独創性」が大切だと散々言われるようになった。
そんなものがどれだけ大切なのかは疑わしい。特徴や長所があるのはいい事である。しかし、そのような個性は、別に「発揮せよ」と言われなくても自然と身についているものである。周囲がお膳立てをして発揮させたり、伸ばしたりする類いのものではない。むしろ周囲が押さえつけにかかっても、それでもその人に残っているものこそが個性なのである。
個性は放っておいても誰にでもある。だから、この世の中で生きていく上で大切なのは「人といかに違うか」ではなくて、人と同じところを探す事である。
「自分」は矢印にすぎない
人間は基本的には頭の中に地図を持っている。自宅がどこで、駅がどこで、会社がどこで、というのがわかっている。だから、普段、きちんと会社に行って家に帰れる。ところが、地図には現在位置の矢印がなければ役に立たない。
「自分」「自己」「自我」「自意識」等々、結局のところ「今自分はどこにいるのかを示す矢印」くらいのものに過ぎない。地図の中にある現在位置を示す矢印を消していくとどうなるか。自分と地図が一体化する。自分と世界との区別がつくのは、脳がそう線引きをしているからであって、「矢印はここ」と決めてくれているからである。
「自分」とは地図の中の現在位置の矢印程度で、基本的に誰の脳でも備えている機能の1つに過ぎない。とすると、「自己の確立」だの「個性の発揮」だのは、そう大したものではない。元々、日本人は「自己」とか「個性」をさほど大切なものだとは考えていなかったし、今も本当はそんなものを必要としていないのではないか。「個性を伸ばせ」「自己を確立せよ」といった教育は、若い人に無理を要求してきただけなのではないか。
「本当の自分」なんで探す必要はない
世間に押しつぶされそうになってもつぶれないものが「個性」である。結局、誰しも世間と折り合えない部分は出てくる。それで折り合えないところについては、喧嘩すればいい。それで世間が勝つか、自分が勝つかはわからない。でも、それでも残った自分が「本当の自分」のはずである。「本当の自分」は、徹底的に争った後にも残る。むしろ、そういう過程を経ないと見えて来ないという面がある。
日本の伝統芸能の世界は、その事をよく示している。入門した弟子は、まず徹底的に師匠の真似をさせられる。「とにかく同じようにやれ」という過程が10年、20年と続く。そんな風にしても、師匠のクローンをつくる事はできない。どこかがどうしても違ってくる。その違いこそが、師匠の個性であり、弟子の個性である。徹底的に真似をする事から個性は生まれる。
問題は、それぞれの人が個性を発揮するには、世間の方がきちんとしていなければならないという点である。伝統芸能の例で言えば、師匠が基礎をきちんと学んで、その道をきちんと歩んでいるからこそ、徹底して真似る甲斐がある。ところが、今は世間の方がきちんとしていない。それなのに、なおかつ人々に「個性を発揮せよ」と言っている状態である。
本来、人生はどうやって生きていけばいいか、といった事についての世間の基準、ものさしがあるべきなのに、それが揺らいでしまっている。そのくせ「個性を持て」だから、若い人が訳もわからず「自分探し」をしたがるというのが現状である。
実際には「本当の自分」なんて探す必要はない。「本当の自分」がどこかに行ってしまっているとして、じゃあ、それを探している自分は誰なんだという話である。
自信は「自分」で育てる
目の前に問題が発生し、何らかの壁に当たってしまった時に、そこから逃げてしまう方が、効率的に思えるかもしれない。実際に、その時の事だけを考えれば、その方が「得」のようにも見える。ところが、そうやって回避しても、結局はまたその手の問題にぶつかって、立ち往生してしまうものである。
社会で起こっている問題から逃げると、同じような問題にぶつかった時に対処できない。「こういう時は、こうすればいい」という常識が身に付かない。その時に逃げる癖がついた人は、上手に対処できない。だから結局は、逃げ切れない。
自分がどこまでできるか、できないかについて迷いが生じるのは当然である。運に左右されるところもあるし、賭けになってしまう部分もある。何かにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、という事を繰り返す事になる。しかし、そうやって自分で育ててきた感覚の事を「自信」という。