移住につきまとう誤解
移民は不当な非難を浴びやすく、世界で論争を巻き起こしてきた。移民を恐れる感情と中傷は、ブレグジットを招き、トランプ大統領を生み、世界中でポピュリストとナショナリストの台頭につながった。「移民」という言葉は大抵、ギャング、紛争、飢餓、貧困から逃れるために国を捨て、我々の国に押し寄せてくる大量の難民というネガティブなイメージを呼び起こす。
これは完全な誤解だ。移住は例外的な行為はなく、慣れ親しんだ土地をあとにせざるを得ない強制的な行為だけではない。人間の体験の絶対的な中心を成す行為である。移住したい、探求したい、旅に出たいという欲求は、祖先から受け継いだ、私たち人間の本能的な衝動だ。移動の本能がなければ、人類は今もアフリカに留まっていたはずだ。
移民の流れは流入だけではない。移住には流入だけでなく流出もある。私たちはつい、移住とは貧しい国から豊かな国へと移動する行為だと決めつけてしまう。だがこの数十年、世界中の人はあらゆる方向に移動している。しかも、いつまでも同じ場所に留まっている訳ではない。
移住者やノマドは、その土地に根を下ろしながら世界を志向するという、新たな価値体系の実践者である。移住とは「拠り所となる家」を探すことだ。
移住の流れの変化
ニューノマドの旅は、自己修養の機会として始まる場合が多い。学ぶとは、本を広げたり、授業を受けたりする時だけの行為と思いがちだ。だが、世界を旅することは、高等教育を補足するか、取って代わる重要な役割を果たしている。移住の教育的な価値は、私たちの時代の大きな特徴である。その価値を、世界中の若者が以前より理解し、生まれ育った土地をあとにするケースが増えた。
移住の最も強いプル要因は発見だ。地平線の向こうを発見し、自らの中に眠る新たな価値を見つけ出す。21世紀のノマドの特権は移動によって生まれる。飛び立ったから、特権を享受できる。どこであろうと、自分のスキルを活かして可能性を追求できる土地に移り住んだ方がはるかに幸せで、移住先にも利益をもたらす。
開発途上国から先進国へと、一方向だった移住の流れは変わった。世界中のますます多くの若者が、閉塞感を感じて自国で燻っているよりも、よその国が提供するチャンスを窺っている。彼らのような先駆者は既に、グローバルな統合を目指す重要な媒介であり、社会的、経済的、政治的な変化を引き起こす行為者として、可能性を秘めている。
移住の主な原動力は経済だ。だが、購買力と快適性が一定レベルに達すると、それ以上は幸福感が確認できなくなってしまう。その停滞ポイントのあたりで、移住者の外面的な旅は内面的な旅に置き換わり、また移住の目標が、富そのものの蓄積から、より深いレベルで自分の人生をより豊かなものにしたいという願いに変わる。その目標の実現は、大抵移住者同士を、彼らとコミュニティ、自然とを結びつける。そうすることで、移住者はより持続可能性が高く、その土地に根付いた、グローバルな価値体系の媒介者であり創造者となる。
新時代のニューノマド
移住には、住み慣れた国をあとにするという、並外れたパワーが必要だ。彼らがニューノマドに加わろうと決めた理由の1つは、移住によって本当になりたい自分になり、本当にやりたいことをやる機会が手に入るからだ。生まれ育った社会や家族の期待とプレッシャーにも悩まされずに済む。
海外移住はすべての人に好機をもたらす。体験基盤が広がれば精神はより柔軟になり、自分に合った社会で暮らせば人生はより豊かになる。
世界を旅する間に、ニューノマドはニュートライブに参加するかもしれない。これは、深く染みついた人間の習性だ。ニューノマドにとっては、ニッチなアイデンティティの方が、国籍という連帯を上回る。国境や地域を超え、新たな土地に根付くとともにグローバルな精神を持ち、共有の帰属意識によって結びついたネットワークこそ、ニューノマドにとっての自然な拠り所である。なぜなら、彼らはつながりを学び、それを糧に成長するからだ。彼らはつながりの上に成功を掴み、いつしかそのエキスパートになる。
ノマド生活は私たち人間に合っている。ずっと後になって祖先が採用した定住性のライフスタイルよりも自然だ。ノマド生活の力をうまく利用し、祖先のようなコミュニティとつながり、周囲の環境と調和して生きる好奇心旺盛な旅人に、私たちはならなければならない。