トラウマを否定せよ
過去の原因にばかり目を向け、原因だけで物事を説明しようとすると、話はおのずと「決定論」に行き着く。即ち、我々の現在、未来はすべてが過去の出来事によって決定済みであり、動かしようのないものであると。我々は原因論の住人であり続ける限り、一歩も前に進めない。
我々は過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、今の「目的」を考える。人はいつでも、どんな環境に置かれていても変われる。変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているからである。人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいる事の方が楽であり、安心なのである。不幸なのは、過去や環境のせいではなく、ただ勇気が足りないのである。
人生は他者との競争ではない
人は無力な存在としてこの世に生を受ける。そしてその無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っている。アドラーはこれを「優越性の欲求」と呼んだ。人は誰しも「向上したいと思う状況」にいる。
これと対をなすのが劣等感である。理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱く。劣等感は使い方を間違えなければ、努力や成長の促進剤となる。しかし、自らの劣等感をある種の言い訳に使い始める状態に陥る人がいる。そして、本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。「AだからBできない」と言っている人は、Aさえなければ、私は有能であり価値があるのだ、と言外に暗示しているのだ。
しかし本来、「優越性の追求」とは、他者よりも上を目指さんとする競争の意思ではない。他者と自分を比較する必要はない。健全な劣等感は、「理想の自分」との比較から生まれる。
アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言している。対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れる事ができない。競争の先には、勝者と敗者がいるからである。結果、必然的に生まれてくるのが劣等感である。
自由とは他者から嫌われる事である
アドラー心理学では、他者から承認を求める事を否定する。他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きる事になる。そこで、我々は「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離する必要がある。そして、他者の課題には踏み込まない。およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込む事によって引き起こされる。自分の生について、できる事は「自分の信じる最善の道を選ぶこと」だけ。その選択について他者がどう評価を下すのかは、他者の課題であって、どうにもできない。
他者から嫌われたくないと思う事は、人間にとって自然な欲望である。しかし、すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は不可能である。他者の評価を気にかけず、承認されないかもしれないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫く事はできない。
人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれない事である。この現実に対し,「私は誰かの役に立っている」という思いだけが、自らに価値がある事を実感させてくれる。そこには他者からの承認は必要ない。私の価値を実感するためにこそ、他者に貢献する事が大切である。